「金持ちたち」は、物質的には豊かであっても、霊的には貧しい人々のことを指している。ヤコブは、そんな金持ちたちに泣き叫びなさい、と言う。それは、不幸が迫っているからだ、という。今楽しみ味わっている富も、やがて腐り、虫に食われ、さびてしまう、つまりそれらが何の役にも立たない日が迫ってきている。確かに考えてみれば、人間、死を迎えて、蓄えてきたものの一切を地上に残し、裸身で天に戻らねばならない日が来る。それまでは、お金を出せば通用したことも、もはや通用しなくなる時が来るのである。お金が身を守ってはくれない。裸身のまま神の前に立ち、ただどのように生きてきたかが問われる時が来る。結局、その時には、誰かを犠牲にし、搾取し、快楽にふけってきた時代の報いを受けることになる(4節)。
大切なのは、金持ちだからといって裁かれるわけではないことだ。神の関心は、富にではなく、富に対する態度にある。富に執着し、これを愛することを戒めている。富は、与えられた時に感謝して受けとめるべきものであり、正しく用いるべきものである。
次にヤコブは、つぶやかないこと、耐え忍ぶことを勧める。私たちが不当に扱われた時に、神に期待されていることは、一つは、人が本能的な反応を克服することである。目には目、歯には歯、人は当たり前に仕返しを考える。しかし、神はそれを望まれない。妻と夫、親と子供、兄弟どうし、こうした関係の中で起こる仕返し、また上司と部下の間の小競り合いを忌み嫌われる。そして、何にもまして、教会の中で生じる仕返しを忌み嫌われる。「不正な」扱いに耐えることは、難しい。しかし、神は実を結ぶ時を耐え忍ぶ者を喜ばれる(7節)。心を強くすることだ(8節)。心を強くするには、重いものを支える意味がある。困難の時に、重く沈む心を主に支えてもらうことだ。またつぶやかないことである(9節)。そして聖書の人物がいかに耐えたかを思い起こすことだ。預言者たちのように、またヨブのように、神の主権のもとに遜り、従い続けることである(10-11節)。悲しみや思いがけない不幸にあっても、動揺せずに神に信頼しつづける、冷酷な仕打ちの中で神に信頼し続けることである。そしてそのような時に、安易に誓ったりしないことである。苦しみの中で、私たちが守りきれない誓いをすることはよくありがちだが、そうはせずに、苦しみにあっては、静かに物事の結末を見守っていくことが大切だ。
続いてヤコブは、熱心な祈りを勧める。忍耐し、祈る、これが不正に対する最良の策である(13節)。苦しみが癒えるように祈るのではなく、苦しみに耐えられるように祈ることだ。逆に喜びの時には、「賛美しなさい」と勧めている。
ついで病気の時には、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい、と言う。ここで言われていることは、病気の時には、自分の病の癒やしの必要を明らかにすること。そして、当時の感覚で語られていることであるとすれば、適切な医療行為を行うことである。となれば、病気の時には、それなりに専門家に見せて、適切な診断と治療がなされるようにし、その上で祈りなさい、ということになる。主の業への信頼を持つことは大事なことである。個人の病のみならず、家族の病、社会の病、皆、主の業を必要としていることに変わりはない。
最後に、信仰者が真理から迷い出ることは、よくあることだ。そのような時に、兄弟姉妹を迷い出させたままにしたらよいものだろうか。ヤコブは、「救い出すべき」であると助言する。無視してはいけない、遠くから批判しているのもよくない、と言う。というのも、「罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおう」からである。