ヨシュア記11章

ヨシュア記11章 北部同盟軍に対する勝利
<要約>
おはようございます。副将のヨシュアは、イスラエルの地を、南へ、そして北へと奔走し、領土を広げていきます。すべてそれはイスラエルの実力によるもの、というよりも、主の戦いによるものでした。私たちは自分の積み重ねで信仰を建てあげているように思うかもしれません。しかしそうではなく、すべては主の恵みによって一つ一つが重ねられていくのです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.イスラエル北部の占領
 カナンの地は、そんなに易々とはイスラエルのものとはならなかった。エリコ、アイの戦いに続いて、カナンの地南部を征服する戦いがあり(10章)、続いて北部の王の連合軍との戦いがあった。
 メロムの水(5節)は、「高地の水」を意味し、ガリラヤ(キネレテ)湖の水源となっている。ガリラヤ湖の北西15キロ、今日のメイロンとされる。すでに、10章では、南はカデシュ・バルネアとされているから、今日のイスラエルとヨルダン、シリアの一部をカバーする範囲を征服したことになる。もともと、この地は、アブラハムに約束された地であり、イスラエルは、エジプトでの奴隷生活の430年の後に、この地に帰ってきたことになるのであるが、彼らはこの地を戦って取り戻さなくてはならなかったのである。また、イスラエルと和を講じた町は、ギブオンの住民を除いては、一つもなかった。カナンの地の人々の心がかたくなであったのは、主が彼らを聖絶するためであり、主がモーセに命じたとおりに彼らを一掃するためであった(20節)。
2.人間の心の頑なさと神の公正さ
しかしどんなものだろう。出エジプトのパロの出来事もそうであったが、神はパロの心をかたくなにし、滅ぼしている。神が定めたことには誰も逆らえないのだから、人を滅びや聖絶に定める神は不正ではないか。新約聖書の中でも同じ問題がパウロによって取り上げられている。「神は、ひとをみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう」(ローマ8:18,19)しかしパウロは、たとえそうであっても神に不正はないという(8:13,14)。それは神の主権を語ろうとする表現であり、神の独自性、自立性を語り、何物にも影響されないことを表現しているに過ぎないからだ。実際には、神はその主権を人の滅びのために用いられるお方ではない。人がえこひいきするように、生理的に嫌いな者を排斥するような、狭量な存在ではない。だからパウロは言う。「もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか」(ローマ9:22)神は、まず滅びありき、ではない。むしろ豊かな寛容をもって忍耐し、救いを待ち望んでいるお方である。しかし人はその神の恵みを無にする存在であり、結果的に自ら滅びを刈り取る者なのである。自ら目に見えない神を恐れ、神に降伏し、遜るギブオンのような存在は稀である。
3.神が勝利を与えられる
一方神は、貧しい者、弱い者の神であり、望み無き者にご自身の栄光を表されるお方である。北方の連合軍の人数は海辺の砂のように多く、馬や戦車も非常に多かったとされる。それに対してイスラエルの軍隊は、装備も、兵力も見るからに劣るものであった。しかし、その劣るイスラエルに対して神は加勢し、イスラエルを守ると語った約束を果たされた。
 そのような意味では、今日の私たちも、「大勢の兵で、馬や戦車も非常に多かった」という戦いに直面させられるような状況に置かれることがあることだろう。しかし、神はそんな私たちに語られる「彼らを恐れてはならない。」と。滅びるしかないと思うようなことがあっても、主は無力な私たちを守られるし、先に進むことができるようにされる、と主を信頼することである。「主が敵を私たちの手に渡される」ことが起こる。神に従順となり、神のことばに信頼し、戦うならば、神が、私たちに勝利を得させてくださることが起こるのである。

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