ヨシュア記20章

ヨシュア記20章 逃れの町
 <要約>
おはようございます。聖書の裁きの原則は、二人以上の証人無くして訴えを取り上げてはいけない、また疑わしきは罰せずにあります。しかし、人間社会には、聖書が語る最低限の正義すら無視されている現実があります。人間社会に光が与えられるために、もっと深く聖書に聞き、聖書に従う必要があるのでしょう。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.逃れの町:疑わしきは罰せず
カナン占領後のイスラエルの土地分配は、19章で終わる。20-21章は、この約束の地の一部を特別な目的のために取り分ける、つまり逃れの町を定めるものである。これはすでに民数記35:9-15や、申命記4:41-43、19:1-10にも述べられており、実際に町は、ヨルダン川の東に3つ、西に3つもうけられた。
その目的は、誤って、知らずに人を殺した場合に、殺人者が盲目的に復讐する者の手から逃れることができるようにするためにある。ただそれは、殺人者が裁きから逃れられるためではない(5節)。罪を帳消しにするのではなく、公正な裁きへつなげるための一時的な保護区である。疑わしきは罰せず、というわけだ。
とは言っても、ここから過失に対しては神の守りがあるけれども、故意の罪に対してはないとか、旧約には「目には目を、歯に歯を」という厳しい原則があるが、新約では、イエスの十字架によって全て罪は赦される愛の教えがあるといった言い方もできない。
2.神は愛である
 たとえばカインの場合、カインは過失で弟を殺したわけではなかった。むしろ、以前から弟を憎み、殺す機会を伺い、計画的に殺した。しかし、そのカインに神は、「目には目を、歯には歯を」という同害報復法を適用されなかった。確かに、カインは、弟の血を吸った土地に呪われ、土地を耕しても、もはやカインのためにその力を生じない、という罪の結果を刈り取ることになったが、神は、カインが人の手によって殺されることのないように、カインに復讐する者は、その七倍の復讐を受ける、とだれも彼を殺すことがないように守りを約束された。また土地は、呪われたとは言うものの、実際にはカインは「町を建てた」とある(創世記4:17)。つまり、カインは、いのちも生活も保障されている。これをどう考えるか。彼は、ヨシュアの時代であったならば、いわゆる過失ではない、故意の殺人であったのだし、民数記35章の定めからすれば、極刑に定められる者であった。しかし、神の愛の精神は、旧約においても新約においても変わらないもので、神は故意の罪であれ、神の前に出て悔い改め、神を呼び求めるものには、救済措置をとられる例として見ることができる。
3.悔い改めを受け止める神
過失の罪はよいが故意の罪は決して赦されない、と聖書は言わない。もちろん、神に事の大小がわからないというわけでもないのだろう。しかし神にとって、過失にしろ故意にしろ、我に返った時に、その人がどのような態度を取るかが問題なのである。そのよい例話がマタイ20章にある気前の良いぶどう園の雇い主の物語であろう。雇い主は、早朝から汗水たらしてしっかり働いた者にも、昼から働きに来た者にも、夕方仕事が終わる一時間前に働きに来た者にも同じ1デナリを日当として支払っている。朝から来た者が不公平であると文句を言うと、私は「気前が良いのだ」と答える。これは、神の気前の良さを語っており、いつでも悔い改める者にはチャンスを惜しまないお方であることを示している。実際十字架につけられた強盗が、死ぬ間際に悔い改め、パラダイスにイエス共に行くことが約束されている。
重要なのは、その十字架の罪の赦しは、私たちにも有効だ、ということだろう。そして、6節「その人は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいはその時の大祭司が死ぬまで」とある。過失が認められ、公正な裁きが行われるまで、あるいは、私たちにとって、その時の大祭司というのは、キリストであるからキリストが死ぬまで、である。キリストが死ぬことはないから、それは実に確かな保障である。
人間は過去を問題にするが、神は未来を問題にする。そのような神の愛が本当にわかるなら、人は、自らを完全に神に献げることを惜しまないだろう。真の悔い改めは、計り知れない命ある人生を生み出す。大切なのは、神との語り合いの中で、自らの人生を振り返り、神の裁きを受けることをよしとし、神の愛に感じて、新しい人生へと進ませていただくことだ。

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