ヨシュア記19章 各部族の相続地
<要約>
おはようございます。今日は聖書地図を開いて読んでみたいところではないでしょうか。またこれらがヤコブに祈られた祈りの成就として、読んでいく時にこそ、最初の読者が得た霊的真理と感動を共有できるように思われます。彼らは何よりも旧約聖書に通じる民でした。私たちもそういう意味では旧約聖書を暗唱するほどに読む必要があろうかと思います。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.シメオン、ゼブルン、イッサカル、ナフタリの相続
イスラエルそれぞれの相続地が確認される。シメオンの相続地は、ユダの相続地の中に割り当ての地を持ったとされる(8節)。不思議なものである。ヤコブの祝福の祈りが重ね合わされる部分がある。ヤコブは祈っている「シメオンとレビとは兄弟。・・・私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう」(創世記49:5-7)ヤコブの祈りのとおりに、レビは相続地を持たず、シメオンはユダの相続地の中に自分達の相続地を持つように散らされた。
だがゼブルンは「海辺に住み、南の境界はシドンにまで及ぶ」(創世記49:13)と祈られたが、実際に海辺に住んだのはアシェルであり、南の境界もツロを越えることはなかった。神のみこころにかなう祈りのみが、実際にそのとおりになっていく、と理解したらよいのかもしれない。私たちが祈ったことで、祈りが聞かれた、聞かれなかったと言うことは多いが、実際には全て聞かれている。そして私たちの祈りの熱心さによるのでも、祈りの積み上げによるのでもなく、ただ神のみこころにかなう祈りがなされるならば、それは、あたかも聞かれたかのように実現していく、ということである。
イッサカルについて、ヤコブが祈ったことは「イッサカルはたくましいろば、二つの鞍袋の間に身を伏せる」(創世記49:14)である。これは、難解なことばとされてきたが、創世記49章を基本的に土地相続についての預言とすれば、イッサカルがマナセの二つの相続地に挟まれるような形で、低ガリラヤ東部を相続地として得たことになるだろう。
ナフタリについては、「放たれた雌鹿、美しい子鹿を産む」(創世記49:21)と語られている。これは文語訳では、「彼よきことばをいだすなり」とされ、そのように訳し出すことも可能ではあるが、文脈に適合しない訳とされてきた。しかし、「よきことば」をイエスと考えれば、ナフタリの相続地(上・下ガリラヤ)から、つまりナザレからイエスが現れるという預言的なことばと理解することもできる。
私たちの祈りは決して無駄にはならない。大切なのは神の御心に沿って祈られるか否かにあるのだろう。神と良き時を過ごす、というのは、神の御心を知り、神の御心に近づき、祈るべきことを教え悟らされ、祈っていくことに他ならないのである。。
2.ヨシュアの相続
イスラエルがすべての相続地の割り当てを終えた後、イスラエル人は、それで解散とはならなかった。彼らは指導者ヌンの子ヨシュアに、ティムナテ・セラフの町を与えたという。彼は割り当ての権利を控えて来たのである。確かに、指導者は、最後まで神に従い、指導の任を果たす必要があり、自分の取り分を正当に主張する権利があっても、それは最後にならなければならない。興味深いことに残り物に福があるというわけではないが、ティムナテ・セラフは、「ありあまるほどの部分」という意味である。
ともあれ、約束の地カナンを征服するように導いたヨシュアに対する礼を尽くす、そんな心をイスラエル人は持っていた。ヨシュアはそれだけのことをした、ということもあるが、それだけのことをしても、心遣いも礼もないことはある。イエスが10人のツァラアトに冒された人を癒した時に、帰って来て礼をしたのはその中のたった一人であったように、心遣いの欠けた現実はあるものだろう。ヨシュアが、民の割り当てをすべて終えた時に、イスラエルの民がヨシュア自身の祝福を考えたように、教会においてもそうでありたい。
パウロも言う。「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。・・・私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。」(ガラテヤ6:6、10)牧師の生活は、信徒が考えなければ誰も考える人はいない。牧師が信徒のために時間を注ぐのならば、信徒も牧師の配慮に、感謝をもって心遣いをしていく必要があるだろう。
「彼はその町を建てて、そこに住んだ」(50節)「こうして彼らは、この地の割り当てを終わった」(51節)実に、相続の割当が完了したのは、イスラエルの民と指導者が安住の地を得た時である。そういう意味で、教会全体が、主の満たしを受ける事が大切である。信徒も祝福を受け、牧師も配慮を受けていく。完成されていく教会であろう。