ヨシュア記3章 ヨルダン川渡渉
<要約>
新年あけましておめでとうございます。今年もご一緒に、神と良き時を過ごす楽しみを味わってまいりたいと思います。今日はいよいよ約束のカナンの地へと踏み出していく、第一歩が踏み出された箇所です。今年の、この一ページ目が、私たちの大いなる祝福の一歩となることを期待するところです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ヨルダン川のほとりで
ヨシュアは、二人の斥候の報告を受けた後、翌朝早くイスラエルの民を引き連れて出発した。時は、太陽暦の4月に当たる第一の月の十日である(4:19)。ちょうどヨルダン川はヘルモン山の雪解けの水と春の雨とで増水し、水は岸まで溢れていたが、そこには橋も船もなかった。エリコの偵察隊は、すでに敵が自分たちのことで「震えおののいている」と報告したばかりで、士気は十分高まっていた。そんな彼らの行く手をヨルダン川が遮っていた。
3日後、イスラエルの陣営に動きが起こった。つかさたちが宿営の中をめぐり、主の契約の箱に注目し、その動きを注視するように触れまわった。またヨシュアは、イスラエル人に身をきよめるように命じ、主が不思議を行われると宣言している。この3日の間に、おそらく神が何らかの方法で、ヨシュアにご自身の御心を知らせたのだろう。
全ては主に始まることを知らなくてはならない。主が、「今までこの道を通ったことがない」道を通らせて、私たちの難局を切り開いてくださる。いつでも私たちはそういう期待を主に持たなくてはならない。ここまで私たちの人生を導いてくださった神は、途中で私たちを放り出すわけがない。むしろ、更に大いなる神の恵みと力を示し、神とともにあるその素晴らしさへと導いてくださる。だから主の業が現わされるように、私たちを主のものとすることが大切である。「身をきよめる」というのは、単に衣服を洗う(出エジプト19:10)のでも、性的行為を慎む(出エジプト19:15)ことでもない。それは、自分自身を神のものとして聖別し、献げる行為である。
2.ヨルダン川を渡る
6節、夜が明けて、ヨシュアが民に命じている。「民の先頭に立って渡りなさい」増水したヨルダン川に前進するように命じる。それは、ちょうど出エジプトの時の状態と似ていた。ただ神のなされる業を信頼し、前進する時に、道は開かれるという。そして、「箱をかつぐ祭司たちの脚が水際の水に浸ると、川上から流れ下る水が立ち止まった」そして「民全員がヨルダン川を渡り終えた」
この奇跡によって、指導者ヨシュアには、モーセと同じように神がともにおられたことが明らかにされる。また、この奇跡は始まりであった。神の導きは一つではない。神は導きに導きを重ね、私たちを全く想像もしなかった人生へと導いていく。私たちは自分の人生を小さく考えてはいけない。どうせ私の人生はこんなものだ、という思いは神の前に捨て去ることだ。むしろ天地創造の偉大な神への信仰をもって、心を開き、神の語られることばに耳を傾け、神に自分の人生を導いていただくことだ。
ヨシュアは言う。このヨルダン川渡渉により、「生ける神があなたがたの中にいて、あなたがたの前から、カナン人、ヒッタイト人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人を、必ず追い払われる」ことを知らなくてはならない、と。カナン人は、ヨルダン川以西、特に地中海沿岸の平野部の住民を指す。ヒッタイト人は、パレスチナ南部を根拠地としていた。ヒビ人は、パレスチナ中部、ペリジ人は南ユダ、アモリ人はヨルダン川の東、エブス人は北部に住む民族である。つまり、ヨルダン川渡渉は、パレスチナ征服の第一歩であり、終わりではない。
私たちに与えられている約束も同じである。全世界に出て行ってとイエスは命じられた。イエスの下に、全ての神の民が集められることが私たちの最終目的であり、私たちの一つ一つの働きはその目的に向かっている。神の大いなる祝福へと近づく歩みも、今日の信仰の一歩から始まるのである。