ヨシュア記5章 割礼
<要約>
皆さんおはようございます。イスラエルは、約束の地に入り、いよいよその地を征服する戦いに出ていきます。注目すべきは、ヨシュアが主の軍の指揮下に入ることでしょう。イスラエルはヨシュアを指導者として仰ぎましたが、ヨシュア自身は、主の軍の将の指揮下に入ったのです。人生は神のご計画を生きることに尽きるのです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.エジプトのそしりを取り除く割礼
カナンの地に住む人々は、神の御業を知った。そしてそのために心がしなえ、勇気がなくなった、という。神が全ての道筋をつけておられる。後は、イスラエルがこの挑戦に出て行くかどうかである。
ギルガルにおいてヨシュアは、イスラエルの民に割礼を施した。それは、エジプトから出て来て後、荒野の旅の途中に生まれた民はだれも割礼を受けていなかったからだ。「割礼」は、神がアブラハムとその子孫とに結ばれた契約のしるしであり(創世17章)、火打石の小刀で男性器の包皮を切除する。ちなみに火打石は黒曜石であるとされるが、この行為は少なくとも二つの意味を持っていた。割礼を受けていない新しい世代が、割礼を受けるためであること(5節)、そして「エジプトのそしり」を取り除くことである(9節)。
彼らは、割礼によって、自分たちが神と契約を結んだ割礼の民であることを明かにした。かつて航海を渡り、シナイ山に立った者で無割礼の者はいなかった。先の世代では、全ての者が割礼を受けていた。しかし、エジプトを出た後に荒野で生まれた新しい世代は、割礼を受けていなかった。だから、みな割礼を受けるべきであるという。
そして割礼を受けていながら、その不従順の故に、荒野を40年間彷徨わなければならなかった民は、まさにエジプトのそしりから逃れられなかった民である。しかし今や新しく割礼を受けた民が、神への従順の故に、神との契約のとおりに約束の地へ入って行く、これは、まさにエジプトのそしりを取り除く行為なのである。
パウロは、「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」(コロサイ2:11-12)と言う。今や、キリストにあって割礼を受け、新しい契約の民とされた私たちは、その従順によって神の祝福へと踏み出していくのである。だからもういつまでも荒野の40年を歩むような人生を送ってはならない。もし今なおそんな不毛な日々を歩んでいるとするならば、今日この日から、不信者のそしりを取り除く歩みへと出て行くことが大切である。
2.過ぎ越し
「過越」は、エジプトにおいて奴隷状態であったイスラエルが、神の奇蹟的な介入により解放された、その素晴らしい祝福を覚えてなされるものであった。今度こそは、ということであろう。彼らは、エジプトの延長である荒野の生活と決別し、今度こそ約束のとおりに新しいカナンでの解放の時代を迎えようとしていたのである。実際、「マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナはなかった」。彼らは、カナンで収穫した物を食べた」(12節)。40年間荒野で、マナに養われた時代は終わった。もはや後戻りできない、神の助けによる新しい時代が開けようとしていた。
さて、エリコに近づいたヨシュアは、主の軍の将と出会った。それは、イスラエルの軍の将であるヨシュアが、主の軍の将の指揮下に入っていく時であった(15節)。約束の地の征服は、ヨシュアが一人で負う使命ではなく、神の軍の指揮下に入って行う働きであった。私たちの人生の戦いも皆そうである。「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから」(2歴代20:15)と言われるが、私たちは常に、神の指揮下にあって戦うのである。私たちは、自分を高く見過ぎるようなことがあってはいけないし、逆に低く見過ぎてもいけない。今日も神の指揮に従い、神の作戦に与り、自らの務めを果たさせていただこう。