ヨシュア記7章 アイでの敗北とアカンの罪
<要約>
おはようございます。ヨシュアに率いられたイスラエルの最初の敗北が語られています。その原因は、神の民が、神の側に立たなかった、聖絶の者と同じであったことにあります。地の塩、世の光となるべき、私たちがいかに生きているか、神の民として歩んでいるのかを問われるところでしょう。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.アイにおける敗北
イスラエルはエリコで勝利を収めた後、さらに西へと向かい、次の攻撃目標アイへと進んだ。アイの町の標高は、エリコよりも千メートルほど高く、そこへ至るルートは上り道であった。アイもまた城壁を構えた町であったようだが、難攻不落と言われたエリコに比べれば、ア イの町は小さかった。実際、イスラエルの偵察隊は、全軍を派遣する必要もなく、三千人の兵で足りると見て、アイ攻略のために上っていった。
当時アイの人口は一万二千人、戦闘可能な要員は約三千であったと思われる。しかし城壁で守られていたことを考えれば、戦力はそれ以上と見るべきで、実際、思いがけない攻勢を受けて敗退する結果となった。イスラエルは、戦死者を出し、敗北感に打ちのめされたばかりか、戦いはまだ始まったばかりなのに、もはやこれまでか、と恐怖と絶望のどん底に陥っていった。
ヨシュアは「衣を引き裂き・・・、ひれ伏し・・・、頭にちりをかぶった」。そして言った。「私たちをアモリ人の手に渡して、滅ぼそうとされるのですか。私たちは、ヨルダン川の向こうに居残ることで満足していたのです」(7節)と語った。ヨルダン川渡渉を導き、エリコの攻略を成功させた大指導者のことばとは思えないが、これも人間の現実である。神の前に義人であったヨブでさえも、試練の中で、弱められている。ただヨシュアは、神の元を離れず、深い悲しみと痛みの中で、神のみこころを尋ね求めていく。敗北を味わうことは人生の中で多々あることだろう。しかし大切なのは、そこで神の導きを得ることである。神の目的は、私たちを潰し、私たちの名を地から断ってしまうことではない。私たちを神の民として立たせ続けるためである。
2.主の応答、公正な神
主は、へりくだったヨシュアの問いに答えられた。敗北には理由があった。イスラエルの慢心もさることながら、アカンという人物が神に属したものを盗んだためであった。エリコは、カナン攻略の最初の町として、全く神のものとして献げられた初穂の町であり、神だけのものであった。しかし、アカンは、主を覚えず、主への奉納物、金、銀、よい着物を盗み、聖絶のものを私物化する罪を犯したのである。興味深いことは、ここで、主が「イスラエルは罪ある者となった(11節)」「聖絶の者となった」と言われた点だろう。神が約束の地カナンへの侵入をイスラエルに赦したのは、カナンの地を、神の民の地とするためである。そこは、真に、神の御心に生きようとする者たちが住まうところであった。だから神の民であっても、神に背を向けるなら聖絶の対象となる。神は公正なお方である。神の民の中身が問われずに、神の民が優遇されることはない。だからパウロも言う。「わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませる。新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい」(1コリント5:6, 7)と。約束の地カナンは真のイスラエルのものでなければならなかった。
3.罪の告白と赦し
続けて主は宣告された。「罪を除き去るまで、敵の前に立つことはできない。」(13節)そこでまず、罪の告白が求められた(19節)。しかし、罪の告白は進んでするものであって、強いられてするものではない。アカンは罪を告白したのではなく、やむを得ず自白する羽目になった。神が期待されていることは、罪人が進んで罪を告白し、悔い改めることである(1列王8:47)。
なお、罪人のアカンを特定するのにくじ引きの方法が取られている。それは冤罪を生み出すように思われるが、これは神がこの問題に限って定めた方法であり、アカンの自白によって、適切な方法であったと考えるべきなのだろう。
ともあれ、この大変な罪のためにアカンとその全家族が滅ぼされた(25,26節)。神は罪を赦すお方であるが、罪を見過ごしにしたり、大目に見たりするような方ではない。パウロは言う。「兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない。一緒に食事をしてもいけない(1コリント5:11)。神は、私たちが聖くあることを求められる。というのも、イエスが私たちの身代わりとなって十字架で神の怒りを受け、滅ぼされた故に、私たちの罪は既に赦され、聖い者とされているからだ。私たちは既に聖なのだから、聖なる者として生きるのである。私たちに対する主の燃える怒りは収められている(26節)のだから、私たちは主に愛されている主の民として歩んでいくのである。神の愛と聖めのうちに、喜びと感謝をもって歩むことが私たちの日々の務めに相応しい。