大きな区切りは、2:28からになる。ヨハネの手紙の書き方は、螺旋を描くように、少しずつ内容が深められているのが特徴である。これまで、ヨハネは、キリスト者であることを、神を知っていること(2:3-4,13-14)、キリストのうちにいること(2:5-6)、光の中にいること(2:9-10)、御父と御子にとどまること(2:27-28)として語ってきたが、ここで「神から生まれること」(2:29)がその特徴であることを語ろうとしている。つまり神から生まれることによってのみ、私たちは神を知り、神のうちにとどまることが可能となるのである。ヨハネの福音書3章の、イエスとニコデモとの対話を思い出させるところである。イエスは、「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と語られた(ヨハネ3:3)。それがどのように起こりうるのか、と尋ねるニコデモに、イエスは、「モーセが荒野で蛇をあげたように、人の子もあげられなければなりません」と語った(ヨハネ3:14)。つまり、十字架の恵みによるのである。
ヨハネも、新しく生まれるテーマを取り上げながら、「神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなに素晴らしい愛を与えてくださったかを考えなさい」(3:1)と十字架愛へ私たちの思いを導く。この十字架によって、私たちは今すでに神の子どもとされている。「信じる者は、皆永遠のいのちを持つ」(ヨハネ3:15)と言われているとおりである。
神の子としての身分は確保されたのだ。しかし、その実質は後からついてくる(2節)。だから、そのことが本当にわかっていれば、後からついてくる実質にふさわしく生きようと願うのである(3節)。
だから、罪を犯している者、正確には罪を犯し続けている者のことだろう、そのような人は、みな神の御心を既に知りながら、意図的に反抗を続けているものたちである。神は聖い生活へと招いて下さり、そのための力も備えてくださっているのに、その事実に立って歩もうとしないからである。「神から生まれた者」つまり「キリストにとどまる者」(3:6)は、罪を犯さない。犯し続けない、ということだろう。キリスト者にとって罪は実に不釣り合いなもので、もしそうならば、悪魔から出ている者に等しい。神から生まれた者であるなら、罪を犯す者であっても、その悪魔の業を打ち破る者になるはずである(8節)。なぜなら「神の種」が宿っているからだ(9節)。
既に述べたように、ヨハネは、当時キリスト教会に侵入していたグノーシス主義的異端を意識している。彼らは、人間の内には神的要素、つまり神の種(スペルマ・セウー)が封じ込められているのであり、それを解放することが救いであると教えていた。ヨハネは、彼らの用語を使う。意図的に彼らのことばを借用して、神から生まれるということは神のいのちがあり、それが育っているのだから、やがて罪を犯し続けられなくなる、というわけである。大切なのは、罪を犯すまいと努力することではない。キリストのいのちを大切にすることである。いのちが育てば、やがて私たちは罪からも解放されていく自分を感じるようになる。
そこで、罪を犯さないという消極的な考え方ではなく、神の光の子にふさわしい、愛する、という前向きな態度をしっかり持ち続けようではないか(11節)。これこそ、初めから聞き、基本とすべき態度である。愛するということは、カインの例が示すとおりに、まずは妬まないことである(1コリント13:13)。裏返せば、パウロが言うように、それは寛容であり、親切である。また愛するということは、不特定多数の人に対するものではなく、身近な具体的な兄弟姉妹に対するものである。まずは、これもパウロが言うように信仰の家族に善を行いましょう(ガラテヤ6:10)、ということになる(15節)。ヨハネはイエスが、同僚のペテロを愛し、マリヤを愛し、ザアカイを愛されたことを知っていた。ヨハネ自身、「イエスの胸もとに寄りかかり」(ヨハネ1:14、19:35、1:39、13:25、21:20)愛された経験があった。ヨハネが愛することを勧めるのは、イエスに愛された経験に基づいている。つまり、愛するというのは、文字通り自分の命を捨てることもあるかもしれないが、そのような大きなことよりも、もっと小さな、日常性の中での心配りそのものであったりする(17節)。必要がわかっていながら心を閉ざす、そこに愛はない。家族の必要がわかっていたら、そのために時間を割くだろうし、教会の必要がわかっていたら、そのために自分を用いるのが愛である。愛を語る人、愛すべきものを捜す人は多いが、具体的に人を愛する人は少ない(18節)。
私たちは人を愛するとは言いながら、自分の世的ないのちを守るために愛している現実がある。つまり私たちの愛は利己的なものである場合が多い。だから自分の利益が侵されそうになると、愛の関係も失われてしまう。しかし、本当の愛は、真理を守り、いのちを削る。本当の愛には義しさがある。「たとい危害を受けようとも、約束は破らない」(詩篇15:4)ものだ。自分に利益をもたらす者を愛するだけではなく、たとえ、危害を加える者であっても、その人の祝福のために祈っていく。神が魂を祝福し、神に近づく者とさせてくださるように祈っていく、新しい命に満たされていればこそできることなのである。神の子は、神の命令に従う。
事実それによってこそ、私たちは、神から生まれたことを確信していく(19節)。やはり罪を犯し続けていて、神の子である恵みを感じ続けることは難しい。当たり前の論理であるが、私たちは、まさに神の御心に生きることによってますます、神の子である喜びを深く味わうのである。たとえ、私たちが失敗したり、以前は罪と思わなかったものが罪であるとわかるようになり、人間としての不完全さ、未熟さをつくづく感じるようなことがあっても、このような私に神の種を宿し、愛し、支え、導こうとしておられる、神の愛を深く覚え、ますます神に仕える心を、奮い立たせられることになる(20節)。神のこころは、実に偉大である。それは晴れ渡った、夏の空のようにすがすがしい、神は光であり、神は私たちによきものを拒まれない。
もし、私たちが何かに不足している、と思うのなら、神に求めることである。ヤコブが語るように、祈らないことが最大の欠乏である(ヤコブ1:5)。