1-3節は、1章に続くものなのだろう。結局、神の光に生きるということは、罪人としての人生から解放されていくことである。キリストの聖さに与っていくことだ。しかし、人間である以上罪を犯すことは避けられない。避けられないが、キリストはその罪を赦し、聖めてくださる。キリストの足跡にただひたすらついていく人生、そこに、キリストのとりなしもある。キリストのささげ物は完全なささげ物だ、というわけである。
そこで光である神を仰ぎ、慕う人生は、三つの特徴を持つと言えるだろう。
第一に、神の命令に対する従順である(3-6節)。ヨハネがこう語るのは、二世、三世の人々であり、キリストのいのちに触れて生きる、ということが、信仰の営みの中で、わかりにくくなってきている人たちであったと思われる。ただ神を迷信的に恐れ、内なる罪をいかんともしがたく持て余すだけで、光である神に照らされ、神のいのちに満たされて生きることが、実際のことではなく理想のように思われ、信仰的な成熟の恵みに踏み出すことが出来ないでいる人々であったと言える。歴代誌には、アマツヤ王の信仰の歩みが語られている(2歴代誌25:5-24)。彼は、神を迷信的に恐れるだけの人であった。だから神の言葉を軽んじ、守ろうとしなかった。そこでヨハネは、まず神のことばを守っていく、その中で、実際に、神の愛がわかるようになる、という。「わかる」は「事実として知っている」を意味する。つまり、「なんとなくそうなのかなあ」とわかることではない。神のことばにしっかりとかけて生きていく、そういう営みがあればこそ、神のなんであるかも確かに知るようになるのである。
次に、神の命令の何に注力するか、それは、愛である(7-11節)。それは、新しい命令ではなく、古い命令、古くから語られてきた命令である。そういう意味では、申命記律法の中心を流れているのは神の愛の戒めである、ことを思い起こすところだろう。
ヨハネが、「父たちよ」「子どもたちよ」と呼びかけるのは、Distributio(分類法)と呼ばれる、一つの修辞的表現である。最初に包括的な用語があげられて、それから要素的な用語が取り上げられる。つまり、「子どもたちよ」が、包括的な用語、その後に、会衆の中で霊的に成熟した「父たちよ」そして霊的に初心者である「若い者たちよ」が取り上げられている、と理解できる。これは、ヨハネ独特の用法で、ヨハネの福音書において「子どもたちよ(テクニア)(12節)」または「小さい者たちよ(パイディア)(14節)」という言葉は、すべての信仰者を対象として使われている。前者は、子どもと親の間にある連帯感(血肉関係)を、後者は、親の養育かにある子どもの小ささ(服従性)を強調している。一方、「父たちよ(パテレス)も、「若い者たちよ(ネアニスコイ)」も、すべての信仰者を対象に使われることはない。子どもたちよ、若い者たちよ、父たちよ、と霊的に三段階の状態があると言うわけではない。
だからヨハネは、子どもたちよ、と全体に呼びかけ、罪が赦されたことと、御父を知っていることを強調する。それは基本である。そして霊的に成熟した父たちには、ただ神を父と知っているだけではない、その方は初めからおられた永遠の神であることを知るようになったこと、そして霊的に幼い若い者たちには、霊的に勝利する恵みに与るようになったことを指摘している。14節は、12、13節の繰り返しである。
神との交わりの豊かさは、現実のことであって、空想ではない。世と世にあるものを愛することに勝るものである(15-17節)。肉の欲は、性的罪悪のみを意味するのではない。世俗的な快楽を求める心、飲食に節度を知らず、享楽の奴隷となる、つまりあらゆることで肉を喜ばせることを言う。目の欲は、外観に魅惑されがちな傾向で、どんな物を見ても、所有したくなり、手に入れると、人前で見せびらかしたくなることを言う。暮らし向きの自慢は、自分のことを高め、他人に印象づけるために、自分の所有物や功績でもないものを自分のものだと言い放つ、ほら吹きである。実際以上に自分を大きく見せつけようとするものである。
最後にヨハネは反キリストに注意するように語る。パウロ書簡では、偽教師と呼ばれる存在であるが、既に1章でも述べたように、教会にはグノーシス主義的な異端が入り込んでいた。つまり「仲間でない者」毒麦が混じりこんでいたのである。ヨハネは、1章で暗示的に語っていたが、2章では、その者たちの特徴を明確に語っている。つまり反キリストの特徴は、①イエスがキリストであることを否定する(22節)、②キリスト者を惑わそうとする(26節)、である。日本のキリスト教会の歴史の中にも、そのような問題は起こってきた。明治期の植村正久と海老名弾正の論争もそうであろう。植村正久は海老名の信仰について、「それはキリストを信ずる信仰ではなく、キリストが信じた信仰を私もまた信ずるというに過ぎない」と指摘している。微妙であるが、キリストを神であり、キリストに永遠の救いがあると認めて従っていくところに、キリストが現れる日、いわゆる再臨の恵みを大いに喜ぶことができる。キリストとそのいのちにしっかり心を向ける信仰の歩みを導いていただくこととしよう。