ヨハネの手紙第一3章

1ヨハネの手紙3章 互いに愛し合う
1. 罪を犯さない(3:1-10)
ヨハネは、螺旋を描くように、少しずつ内容を深めながら語っているように思います。1章では、キリスト者は、神と交わりを持つ、つまり神との関りの中で生きること、そして2章では、その最も大事な教えは、神の言葉を守ること、神の愛の命令に従って生きるべきことを語っていました。しかしこの3章では、その神との関りは、親子の関係であると、より深いきずなについて述べるのです。2節、「私たちは今すでに神の子どもです」とヨハネは言います。人間というのは、どうあがいても、親譲りの性質、行動をとるものですね。それと同じ理屈かもしれませんが、神の子として、新しく生まれたのなら、神譲りの性質、行動を取るとなるでしょう。蛙の子は蛙、神の子はキリストに似たものになる、というわけです。ですから、そのような望みに生きている私たちは皆、キリストが清い方であるように、自分を清くする、というわけです。それは、別の言い方をすれば、6節「キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。」となるでしょう。
しかし、この世にあって、罪を犯さないなんてことはあるものでしょうか。神を信じ、神の教えに従う者は、そんなに聖くなれるというのでしょうか。ヨハネは言います。7節「キリストが正しい方であるように、正しい人」8節「罪を犯している者は、悪魔から出た者」9節「神から生まれた者はだれも罪を犯しません…罪を犯すことができないのです」10節「このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりとします」なんとも、キリスト者というのは、すごい存在だなあ、と思わされるところですね。
ただ、ヨハネは、罪を犯す犯さないということについて、兄弟を愛する愛さないということと言い換えていることに注意すべきであると思います。先の2章でも、神の言葉を守るということは、神の愛に生きること、愛すべきものを愛することだ、と語っていたことを思い起こしたいところですね。罪を犯す犯さない、それは人を愛する愛さない、が焦点である、ということです。
2.互いに愛し合う(3:11-24)
 そのように考えると、聖い人生、罪を犯さない人生というのは、愛の実践そのものにかかっていると言えますね。何かあれをしない、これをしない、という消極的な人生ではなく、与えられている関係を大事にしているか、家族、友人を大事にして生きているか、愛すべきものを愛しているか、そのような積極的な人生なのだ、ということですね。ですからヨハネは言うのです。11節「互いに愛し合うべきである」14節「愛さない者は死のうちに留まっている」15節「兄弟を憎む者はみな、人殺しです」16節「兄弟のために、命を捨てるべきです」17節「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているか。…ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう」こうして読んでみると、聖い人生を生きるというのは、お酒を飲まない、乱痴気騒ぎをしない、汚いことばを使わない、法律に触れるようなことはしない、と単純にイメージされるようなものではなくて、何か課題を抱えた人に心を配ること、積極的にその人が立っていけるように寄り添ってくこと、時には痛みを負いながら支え合っていくこと、そんなことがイメージされるものですね。確かに人の聖さというのは、究極的に深い愛に現わされるのではないでしょうか。ヨハネは言います23節「互いに愛し合うこと、それが神の命令です。」いわば、それが神の者である、聖さの印である、と。今、この混沌とした時代に本当に求められているのは、表面的な美しさ、聖さに生きることではなく、人を心から勇気づける、深い愛に生きる人であるように思います。では、今日もよき一日であるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「イエスの働きにおいて特に重要な機会に同行が許された三人と言えば、ヨハネ、ペテロ、そして誰でしょうか?」答えは、ヤコブでした。イエスに、この3人だけが同行を許された出来事がありました(マルコ5:37、9:2、14:33)では、今日の聖書クイズを一つ。「一般に神の愛は、ギリシア語でアガペー、人間的な愛を示すフィレオーやエロースとは区別されますが、アガペーの愛の特徴はどのようなものでしょうか」答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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