ヨハネの手紙第一4章

キリスト者は、神から生まれた者であり、罪を犯さない、兄弟を愛する、そうした神の子の特徴を描きながら、4章においては、「反キリスト」という言葉を用いて、私たちの在り様とは全く異なる警戒すべき存在について語る。つまり、聖書のことばを使いながら似て非なる信仰もあることに注意しなければならない。

ことに、この聖書箇所の背景には、コリントの教会にも見られた「預言」活動が横行していたことを知っておくべきなのだろう(1コリント12、14章)。ヨハネは、「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません」と言う。それは、この手紙の読者が、「霊感を受けた」という教えのすべてを無批判に神からのものとして受け入れる傾向にあったということである。それは、実に危険な信仰の在り方であり、ヨハネは、それが「神からのもの」なのか、それとも「偽預言者の惑わし」なのかを峻別すべきである。否、信仰の教師たちを調べて見極めることが大事なのだ、と語っているのである。

その見極めのポイントとして、ヨハネは、第一にイエス・キリストを人となって来られた神キリストであると認めるかどうかである。実際のところ、これがまさに当時のグノーシス主義者の問題であった。小アジア出身のユダヤ教徒で、グノーシス派のケリントスは、ナザレのイエスは「公正賢明な人間」に過ぎないと主張し、その神性とメシヤ性を否定した、という。しかし、こうした問題は、当時だけのものではない。日本においても、1887年ユニテリアンの宣教師、A.M.ナップの来日以来、同じような信仰がキリスト教会に大きな影響を与えている。彼らは伝統的なキリスト教神学の立場である三位一体の神学に反して、イエスの神性を否定している。またキリスト教の異端とされるエホバの証人も、三位一体の教理を認めておらず、結果、キリストの神性を否定している。

諸宗教におけるキリスト教の独自性は、キリストの十字架への拘りにある。つまり、仏教、イスラム教、ユダヤ教に比して、キリスト教を特徴づけるものは、キリストの十字架の中心性である。しかしそれは、同時に、キリストの神性をも大事にするのである。ヨハネはそれによって、偽預言者を区別せよ、と語っている。

そういう話の流れで、6節は理解すべきだろう。つまり、「私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。」とある「私たち」は、キリストを神として認め、そのメシヤ性を受け入れている使徒たちの立場である。それは単に、「私たち」か「彼ら」を意味しているのではない。イエスの直弟子であり、イエスを神としてメシヤとして受け入れた、私たちの言うこと、あるいは、その使徒たちの教えを素直に受け入れた福音的な教会の「私たち」なのである。

そして第二の見極めのポイントとしてヨハネが指摘するのは、その教師が十字架愛に生きているかどうかにある(7節以降)。私がかつて、牧師として駆け出しの頃、霊的体験をしたと語る人をどのように見ていったらよいのか、と悩んだ時に、たまたまある集会で同席した本田弘慈先生が、語ってくれたことは、「まずその人は優しくなりましたか?」ということであった。そんなことを思い出すところである。キリストの教師は、まさにキリストを認めているか否かのみならず、キリストの愛に生きているかどうかで判断される。もちろん、それは、単なる親切、優しさ以上のもの、私たちの身代わりとなり罪を贖う、なだめの供え物となった愛に生きているかにある(10節)。だから、愛し合うというのは、ただ単に、愛情をもって愛し合うということではなく、キリストの贖いの心を持って愛し合うことに他ならない。つまり、罪人を神に回復させるように愛しているのかどうか、信仰者を神に結び付け、さらに、近づけるように愛しているのかどうか、それがキリスト者の愛の中心ある。キリストを信仰の中核に据えるというのは、結局は、身近な具体的な兄弟姉妹に対する十字架愛に生きることそのものである(17節)。

このようにキリストと一つ心になって生きればこそ、終末における神の裁きを恐れることもない。やがて私たちは神の御前に立つ。これがクリスチャンの根本的な確信である。神の御前に立つ備えをする、これが人生の最大の務めである。しかしそこで恐れを抱く必要はない。自分の不完全さ、自分の人生の歩みに恥ずべきことが多いと無力感を感じる必要はない。神は私たちを絶対的に愛してくださるお方である。私たちが敵であったとしても、私たちが弱い者であったとしても、私たちが不敬虔な者であったとしても、そんなことは一向にかまわない。神は愛すると決められたものはどこまでも愛してくださる。約束を守る愛に生きてくださるお方なのだ。

となれば、神の子である私たちも同じような生き方をするのは当然であろう。損得を超えた、十字架の贖いの愛に生きる、神の子としての歩みを今日も導いていただくこととしよう。