ガイオの教会には難しい問題が起こっていた。しかし、興味深いことは、今日もこの手紙の中に出てくるような人々がおり、同じような問題があることだ。
ガイオはヨハネによって救われた、特別な関係にあったのだろう(4節)。ヨハネは「愛するガイオ」(1節)、「愛する者よ」(2、5節)と呼んでいる。この時ガイオは、体の調子を崩していたようである。ヨハネは健康の回復を祈っている(2節)。しかしガイオは霊的には健康であった。ヨハネは、そんなガイオを素直に喜んでいる(4節)。
ガイオは、真理のための同労者であった(8節)。ガイオは、神のことばを牧会している人々を支援した。ヨハネの手紙第二では、ヨハネは、「選ばれた夫人」に偽りの教師をもてなしてはいけないと警告を与えている。しかし、ここでは、まことの牧会者、巡回伝道者をもてなすように励ましている。ガイオは、彼らに自分の家庭を解放しただけではない。お金や食べ物を提供したり、衣服を繕ったり洗ったりし、旅を支援した。それは一緒に主の働きに参加するためである。神の民が神のしもべたちを適切に支援するならば、それは失われた者に対する力強い証しとなる(7節)。ガイオのような霊的に健康で、神のことばに忠実で、真理を促進するために自分の持てるものを分かち合う人々が必要なのである。
しかし、残念なことに教会の皆がガイオのようであるわけではない。ガイオの教会には困った人がいた。デオテレペスであるが、彼は、古くからのクリスチャンであったのかもしれない。自分は先輩であり、様々なことを誰よりもよく知っていると思っていたのかもしれない。しかし上に立とうとするその姿勢がそもそも問題であった。彼の傲慢さの故に、教会では、多くの人が傷つけられ、痛んでいる状況であった。10節「意地悪いことばで私たちをののしり」というのは、「私たちに対して間違ったむなしい訴えを起こす」という意味である。指導者に対して間違ったむなしい訴えを起こす人がいる。問題は、そのような訴えを真に受ける人々によって教会がさらに混乱したことであった。不信感によって陰で語られることばに耳を傾けることほどナンセンスなことはない。本人の前で話せない訴えには耳を傾けないことである。むしろ、そのことを本人の前で話させ、本人と一緒に話し合わせるように仕向けることだ。陰で物事を大きくしたり、代弁者となったり、自分の不満を一緒に撒き散らす便乗攻撃をしてはいけない。組織の秩序を乱さない最低の心構えである。デオテレペスは、ヨハネを拒否し、ヨハネと交わる人々を拒絶した。神の愛を教えられている人が残念なことであるが、争い、分派を作っていく、これが人間の現実である。ヨハネは、読者にデオテレペスに倣ってはいけないと警告する。
そして、もし何か模範を得たいと思うなら、デメテリオにこそ従いなさい、いう。確かにデメテリオは、模範とする価値のある人物であった。彼の歩みと働きには矛盾がなかった。ガイオと同様、デメテリオは、真理の内を歩み、神のことばに従う人であった。これは二人が完全だったというわけではない。むしろ主に栄光を帰す彼らの生活に矛盾がなかったということである。
私たちに必要とされているのは、より多くのガイオやデメテリオのような人、そしてより少ないデオテレペスのような人だろう。地域教会を健康的な者にする人として成長させていただきたいものである。