「長老」は、ヨハネの福音書と共通の用語、手紙の中に、福音書と似通った文体が数多く見出されることから、著者は使徒ヨハネであろうと考えるのが通説である。また、「選ばれた夫人とその子どもたち」については、文字通りそのような夫人や子どもがいたのだ、とする説と象徴的に教会である、とする説があり、結論は出ていない。ただここでは文字通りに理解しておきたい。
この夫人は、ヨハネに愛されていた。「ほんとうに」は、ヒューマニスティックな感覚で「心から」というよりは、「真理によって」つまりキリストの十字架愛に基づいて愛している、ということだろう。だから「真理を知っている」(1節)人々はみなそうだ、という。キリストの真理は、私たちに人を愛する愛し方を教えたのである。
たとえ、教会の勢いが強くなったとしても、そこに十字架愛に生きようとする人の姿を一人として見つけることができなかったら、実に空しい。つまり、4節のことばは裏を返せば、ある人たちは真理の内を歩んでいるものの、ある人はそうではない、と言っている。つまりこの教会には争いや分裂が起きており、互いに背を向け、違った道に行こうとする人がいたのだろう。
そこでヨハネは、互いに愛することを命じている(5節)。教会が、間違った教えにかき乱されることから守られるためである(7節)。愛することは、新しい教えでもない。もし新しさがあるとしたら、それはイエスだけが十字架上で身を持って教えてくださったためである。それまで人は、寛容や親切の愛は聞かされていただろう。しかし、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ類の永遠の神の愛を、身を持って、十字架の犠牲でもって示されたことはなかったのである。この愛だけが、冷え切って破壊された人間関係、かきまわされてどうにも手のつけられなくなった人間関係を立て直すことができる。教会が難しい状況にある時にこそ、真理に基づく愛、十字架の愛に皆が一致して立つ必要がある。批判するのではなく、柔和な心で、何が守られるべきかを考え抜き、また選択していく冷静さが必要とされる。しかし多くの教会はこういうところで多々失敗してきた。教会は、神の愛が教えられるところなのだから、もっと、慎重で冷静に、また、穏やかに物事を見ていく、気長に育っていく部分があることを心得ながら関わり建て上げていく感覚がなくてはならない。
ヨハネの時代の教会が、味わった苦渋は、第一ヨハネの手紙でも既に述べたように、イエス・キリストが人として来られたことを否定する、グノーシス主義的偽教師の働きが強かった。この教会でもそうした偽教師が入り込み、教会の指導的な立場を担っていた選ばれた夫人とその子どもたちを批判し、教会をかき回していたのである。ヨハネは、よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい、と勧める。私たちがよく気をつけない時に、慎重さを欠いて、色々と噂話を助長したり、争いごとを大きくしたりする時に、結局労苦の実が失われる。労苦の実をだいなしにしてはいけない。むしろ積極的に豊かな報いを受けるようになりなさい、とヨハネは言う。
またヨハネは、キリストの命令に留まらない巡回伝道者を受け入れてはいけない、という。問題は、そういう人を見抜けず、言葉巧みさに騙されて教師として歓迎してしまう人たちがいたことだ。教会を建てあげるには、ある種の霊性の深さが必要だ。雰囲気にのまれず、本質を見抜く力が必要である。そのためには、もっと、聖書を、当時の時代でのメッセージをよく理解し、その上で私たちの時代、社会の中でそのメッセージを考え抜く作業が必要なのだろう。
牧師のみならず中核になる信徒、牧師に協力する信徒たちに霊的深さがあり、霊的な問題を識別する人たちが集まっていないと、表層的な事柄に振り回されることになる。結局教会形成は個々の霊性の深さに基づくのである。