ヨハネの福音書11章

エルサレムから3Kmほど離れたところにベタニヤという町がある。そこには、イエスが必ず訪れ、疲れを癒す、ラザロという人の家があった。ある日、ラザロは病気になり、彼の姉妹からイエスに助けを求める使いが来た。しかし、イエスは即座にかけつけようとはせず、わざわざ二日間も遅れて出かけたのである。しかしイエスは、ご自分のしようとしておられることをよく理解しておられた。つまり、イエスはそこで神の栄光を現し、死をも超越する信仰を、弟子たちに学びとらせようとしていたのである。

先にイエスは、生まれつきの盲人に対しても、「神の栄光が現れるためである」とお答えになっている。ここでもイエスの意図は「神の栄光が現れるために」である。イエスの弟子であり、イエスに従う者である私たちには、様々な状況にありながら、そこにいつでも「神の栄光が現れるためである」という信仰がなくてはならない。たとえ生まれつきのことであっても、死後四日目で臭くなっている、つまり不可逆的に望み無きことであれ、イエスはそのように語っているのであるから、自分の問題、あるいは、家族や親戚の様々な事柄に心痛み、病む時には、「神の栄光が現れるためである」と物事を見て行くことである。

もちろん、そう言われても、なかなか、ということはあるだろう。ただ、老ヨハネがこの出来事を回想して語るのは、イエスの語ることが希望的観測ではなく、イエスはそのように語り、そのように実行する力があること、イエスは最初からそのような計画を持って、物事に臨まれる方であることを覚えてのことであった。深い不信仰の心からいかに天を見上げることができるのか、それが問題である。

さてイエスを迎えるマルタとマリヤ、二人の対応は対照的である。マルタとマリヤは同じことを言っているが、態度はまるっきり違う。マリヤはイエスの足元にひれ伏し、傷ついたこころを露わにしているが、マルタはいたって冷静である。つまり傷つきやすいマリヤと、傷ついても心を抑制できるマルタの違いがある。そこで冷静なマルタにイエスはどのように対応したか。イエスは、知的に支えている(22-26節)。それだけでも、マルタは、信仰を持つよう発想を変えられ、励まされている。一方傷つきやすく、自分を抑えられないマリヤに対してイエスは、マリヤの悲しみを一緒に味わい、その憤りを共有し、情緒的に支えながら発想を変えておられる(33-36節)。確かに、理路整然と語ってもらい、考え方が整理されればよい場合もあれば、情緒的に支えられる方がよい場合もある。

イエスは、ラザロをよみがえらせた。生まれ付き盲人の目を開けることも、また死人をよみがえらせることも、人間には全く不可能なことであるが、神に不可能はない。イエスはラザロのよみがえりをもってご自身がいのちを握られる神であることを再び示されたのである。結局、神を認めるか、困難を祝福に変える全能の神の存在をどこまでも認めていくかどうかなのである。

後半のカヤパの証言は、イエスについての極めて重要な二つの真理を教える。イエスはなぜ十字架上で死を迎えなければならなかったのか。一つは、イエスが、「民の代わりに死んで、国民全体が滅びない」(50節)ためである。イエスの十字架の死は、全人類の身代わりの死を目的とするものであった。しかしそれだけではない。二つ目に、イエスは、「国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとして」(52節)いた。イエスの十字架の意味については、イエスが私たちの罪の赦しのために身代わりになったのだ、というのは、よく語られることである。しかし、罪の赦しのためだけではない。罪赦され、神に受け入れられ、聖められた者たちが、一つに集められるためでもある。私たちは皆、神のもとに集められるのである。後にヨハネは、そのイメージを黙示録に描いている(黙示録7:9)。あらゆる国民、民族、国語の者たちが一つに集められているイメージである。イエスにある救いの深さがある。

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