ヨハネの福音書13章

本章より、この福音書の後半部が始まる。前半部は、イエスが初めからご自分の正体を解き明かすように、エピソードがあり、説教があり、最終的には、イエスに付き従う決断が促されていた。後半は、いよいよイエスが語られてきたことを実行する内容になっている。

イエスは、水差しと腰のてぬぐいを持って、弟子たち一人一人の足を洗い始められた。そして「互いに足を洗いあう」ことを教える。ルカ22:23で「仕える」と訳されたギリシャ語は「ディアコネオー」。その原意は「配慮する」「提供する」である。仕えるというのは、奴隷のように言いなりになるイメージで捉える人もいるだろう。しかし、そうではない。それは、親のような心遣いと関わりを持って接することを意味する。実際、教会の指導者がキリストに託されている働きは、羊を養うことである。いつも、羊の状態に配慮し、羊の必要に気づき、必要なものを提供できることにある。師は、指導する人だから、何かをさせる人、しもじものことをするような者ではない、と考えるのではない。師は、人の状態に配慮し、必要に気づける人、必要を提供できる人である。そのためには、しもじものことをよく理解している人であることは自然なことだ。そして、口先ではない、本当の心遣いがあるが故に、人に慕われ、信頼され、また師として尊敬されるのだ。

だがこのエピソードは、良い教師が他者に仕えるという高貴な姿勢を示す以上のことを伝えている。当時のイスラエルでは、食事に呼ばれると、必ず水浴をして出かけるのが習慣であった。しかし道は、舗装されておらず履物もサンダルのようなものであったから、足が汚れるので、各家の入口には、大きな水瓶に足洗い用の水が用意されていた。通常は奴隷が水差しとタオルをもって控え、足を洗ってくれるのだが、奴隷がいない場合には、互いに足を洗い合う習慣があった。彼らがその時点で、足を洗わずに二階の座敷に上がり込み、足が汚いままであったのか、よくわからない。しかし、この洗足は、どうやら、「夕食の間」(2節)に起こった。つまり奴隷が客の足を洗う習慣に代わるものではなかった。老ヨハネは、これが過ぎ越しの祭の時に行われ、そこに霊的な意味があることを回想している。ペテロが師の行為を拒んだのは、それが晩餐前に足を洗う行為と理解していたからであろう。しかし、イエスは言う「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」(8節)イエスは、ご自分が父のもとに帰ろうとするその時が来たことを知り、受難のしもべとして、ご自分を現し、ご自分の行為に罪をきよめる力があることをこの出来事で示そうとされたのである。だから、ペテロが再び口を開いて、「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください」とその意図を受け入れたことは正しい。この洗足は、足を洗うこと以上に、神に受け入れられる魂のきよめを目的とするものであった。となれば、14節、互いに足を洗うように、と言うススメは、結局、イエスの福音のしもべとなることへのススメと理解すべきなのだろう。

21節からは、ユダの裏切りが語られる。当時は、ユダの裏切りについて知る者は誰もなく、イエスのみが知っていた(11節)。そしてイエスもそれは、聖書の預言を通して知っていたに過ぎない(18節)。最後の晩餐につては、レオナルド・ダ・ビンチの名画のイメージが強いが、実際には、座卓のような低いテーブルの周りに横になって食事をしたと考えられている。彼らは左下に横になり、左の肘をついて身体を支え、右手で食事をした。そのように座ることで、左隣にいる人の胸の当りに、ちょうど頭が来るような形になった。新改訳2017は、「席に着き」(12節)と訳すが、共同訳では「横になって」と訳されるのは、その状況をイメージさせようとするものなのだろう。ともあれ、ヨハネがちょうどイエスの胸の当りに来る位置(上座)、つまり右側にいた。だから、イエスがご自分の左側に座ってパン切れに手を伸ばしていたユダに個人的に話しかけたことは明かである。そしてイエスは、大声で言ったわけではない。むしろ、自分の頭上に顔が来るユダに聞こえるように、そっと上を見上げてささやいたのだろう。そして彼は裏切りの行動を起こしていく。しかしイエスはこの3年間、自分を裏切る者ユダをも、他の弟子たちと変わらぬ取扱をなさってきた。イエスの心には「まことの愛」が貫かれていた。愛は、口先ではなく、実行されるものである。

そしてこれを機に、老ヨハネは、イエスが後戻りのできない十字架への道を進んでいったことを回想している。イエスが、「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました」と言ったのはまさにそのことであった、と。32節は、神が人の子に与える栄光、すなわち、復活を暗示することばである。しかし、弟子たちには、イエスのこれからなさろうとしている行動計画を理解することができないでいた。「どこにおいでになるのか」「ついて来ることが出来ません」理解し得ない対話が続く。しかしこれからイエスがなそうとしていることは、会いに基づく行為であり、またこれからの弟子たちの愛の交わりの根幹となる行為であった。実際、キリストの愛に倣う愛こそが、キリストに属していることを世に証しするものとなる。イエスの十字架は、苦渋の悲劇ではなく偉大な愛の証しである。生まれつきの肉の力で、その愛に倣うことはできない。ペテロのように愛を語りながら裏切り者となるのがおちである(38節)。彼らは、イエスの復活、そしてペンテコステの恵みを待つ必要があった。まさに、十字架にある罪の赦しときよめ、そして天来のいのちが必要なのである。

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