最後の晩餐の時に、イエスが開口一番に教えられたことは、十字架の遜りであり、その聖めの力であった(13:1-17)。その後、イエスは、裏切り者が現れることを予告している(13:18-24)。最初にヨハネが質問した。「裏切り者は誰であるか」と(25)。イエスは「ご自分が手ずからスープに浸したパンを与える者だ」と答えている(26-30)。次に、イエスは自分が去っていくことを予告した。そこで次にペテロが質問した。「どこにいらっしゃるのか」と(36)イエスは「父が住んでおられるところ」(14:1-4)と答えている。そこでトマスが重ねて質問した「どうやってそこにいくのか」と(5)。イエスは「自分の足跡に従ってくることだ」と語っている(6-7)。
イエスは、ご自分のたどった道についてくるならば、私たちも神の御前に立つことができるという。しかし、イエスのたどった道を踏みゆく者は少ない。刻々と変わり行く時代の流れの中で、私たちが歩むのは、自分のそれであってイエスのそれではない。いつでも私たちは、自分の道、自分が身分や地位を得、財産を築くことに熱中する歩みをしている。しかし、その先には何もない。一方イエスの辿った道は、十字架の道であり、自分を捨て、神に仕え、死にまで従われた道であり、それは、神に至る道である。それは、神と人間に関する「真理」そのものであり、神の「いのち」をもたらすものである。
さてイエスは、ご自分がいなくなって取り残される不安にさらされている弟子たちに、自分がいなくなっても、聖霊なる助け主がともにいてくださること、イエスが帰ってくることを約束される(4:15-21)。そして恐れを克服するため、四つのことを語られる。
第一に聖霊の御業により頼むことである(25-26節)。聖霊は、キリストに代わって、教え、思い起こさせる。第二に、キリストの平安を求めることである(27節)私たちは恐れを自分でコントロールしようとする。しかし、イエスは、ご自分の平安をそのまま与えるという。恐れ、ざわつく私たちの心にイエスの平安が宿る時に、私たちの心も静められる。自分で平安を造り出すのではない。キリストの平安を心の内に持つ経験を私たちは知らなくてはならない。
第三に、神のご計画を知り、受け止めることである(29節)。イエスは、弟子たちにご自分が、去って行かれることを語られた。しかし、同時に、再び戻ってこられることを約束された。神の約束を静かに信頼することが、私たちの恐れを取り除く。私たちは神のご計画があり、そのご計画に生きることが最前であることを知らなければいけない。しかし多くは、自分の計画にしがみつき、イエスにたかる者のように生きているからこそ、イエスが見えなくなると不安になるのである。私たちが真に神を愛するなら、恐れはないのである。
最期に、キリストに倣うことで、私たちは恐れを克服することができる(31節)。イエスは、父を愛し、死にまで父の命令に従った。そのような愛に動機付けられた従順は、キリストに平安を与えた。この愛に動機付けられた従順は、私たちが踏み行くべき模範の道である。
私たちに恐れは尽きない。いつでも恐れることはある。しかし、キリストが、まず自分の力の源であることを認めることだろう。そして恐れた時には、キリストの平安を求めるべきだ。そして、神のご計画に生きているかどうか、確認しよう。そして、悲観的、否定的な心の習慣を捨て去り、キリスト共に信仰的な戦いに出ていく決心をしよう。「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」(31節)は、イエスがこの世の支配者との霊的な戦いに出て行くことを決心したことを意味している。私たちも同じ決意を持って進みたいものである。