ヨハネの福音書15章

ここでイエスは、いよいよ、この世の支配者との霊的な戦いに出て行くことを決意し、弟子たちに挙党一致を呼びかけている。そして、ヨハネはこの時、イエスが、いくつかの共通意識を持とうとしていた、と回想している。それは、最も親しい弟子たちに対する、最も重要なメッセージであった。イエスは三つのことを語られた。

第一に、1~11節で、弟子たちとご自分との関係について。鍵となる言葉は、二つ。「とどまる」と「実を結ぶ」である。3節「わたしにとどまりなさい」、ギリシャ語では強調形が使われており、「まさにこの私にこそとどまりなさい」となってる。イエスはご自身を「まことのぶどうの木」に例え、「あの人でもなく、この人でもなく、私にとどまりなさい」そうすればあなたがたは豊かに実を結ぶ、と言う。

こうしたことばの背景には、神から離れ実を結んでこなかったイスラエルの歴史を覚える必要があるだろう(イザヤ5:1-4、7)。バプテスマのヨハネも、悔い改めにふさわしい実を結びなさいと語ったが、イスラエルは神から離れ、相も変わらず悪と不正、そして流血に満ちた、実を結ばない荒れ果てたぶどう畑にたとえられるものであった。そこでイエスは言う、イエスとともに生まれる新しいイスラエルは、イエスにしっかり結び付き、イエスから霊的な糧を得て生きるように、と。そしてイエスが与えられる永遠のいのちを喜ぶために、イエスのきよさの中にいることが勧められる。御子の尊い血潮で、私たちの魂がきよめられること、そして、それが維持されるために不要な枝葉末節が切り取られること、つまり刈込がなされ続けることが大切なのだ。それは、具体的にパウロが言う敬虔のための鍛錬を意味する(1テモテ4:7)。

キリスト者の人生は、神の義、正しさにあずかる人生であるが、現実は厳しく、必ずしも聖書にあるとおりの歩みができるわけではない。自分がつくづく罪深い人間で、罪の泥沼から抜け出せないと思わされるような現実に直面することがある。そんな罪深さに失望する時であっても、十字架の恵みと赦しによって、あきらめることなく自分の救いを完成するのである。私たちがクリスチャンとして完成されていくためには、多くの罪の赦しと神の恵みが必要である。多くの失敗を重ねながらも、キリストの愛によって支えられ、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という実を、豊かにならせていくのである。それによる結果は、信仰者の祈りはどのようなものであれ、かなえられることになる(7節)。というのもキリストご自身の祈りを自分の祈りとすることができるからだ。

第二にイエスは、兄弟姉妹に対する愛の実践について語っている(12,17節)。それは、教えというよりもむしろ戒めである。動詞は現在時制で、継続の意味あいがある。「互いに愛し合い続けること」を意味している。つまり、しばしば、きまぐれに、衝動的な感情で愛するのではない。愛は、持続力のある行為である。人のために最上のものを求め続ける意志力である。その模範は、イエスにある。イエスはちょうど「わたしがあなたがたを愛したように」と言われた。つまり、究極的には十字架愛として現された個人的な犠牲をいとわない愛で愛することである(13節)。また、仲間内、身内として愛する愛である(14節)。一つ心にされていく愛である(15節)。仕事を越えた全てを分かち合う愛であり、相手が最大の満足に導かれるため互いに助け合おうとする愛である(16節)。その愛はまさに天来の愛、主イエスに結び付いたいのちの結果として起こる愛と言うことができるだろう。

18~27 節では、弟子たちと世との関係が取り上げられている。鍵言葉は、「憎しみ」と「証」。あなたがたは世から憎まれるであろう。しかし恐れず証せよである。

神であるイエスに対しては「留ま」り「実を結ぶ」こと、兄弟姉妹に対しては十字架の愛によって「愛する」こと、そして世の敵意に対しては恐れず「証し」するのだ。世から徹底した敵意と憎しみを向けられた弟子たちが、それと同じ敵意と憎しみを受けないですむわけがない。実際、使徒の働きは、弟子たちがキリストと同じ理由なき憎しみを受けたことを記録する。そして同時に、イエスがここで約束されたように、聖霊が、彼らを助けたことを証ししている。そこに恐れることのない理由がある。あなたは一人ではない。聖霊があなたとともにいて、聖霊が必要なことをお語りくださるのである。

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