ヨハネが取り上げる第二のエピソードは、「サマリヤ人の女」のそれである。イエスが、ユダヤを去りガリラヤ地方へ向かったのは、イエスがヨハネよりも多くの人にバプテスマを授けていることをパリサイ人たちに知られたためで、パリサイ人との余計な衝突を避けるためであった。イエスに衝突している暇はなかったのである。そこでイエスは、サマリヤを抜ける最短経路を通っていった。しかしその選択は単なる地理的な必要によるものではなく、神のみこころによるものであった。神は、サマリヤ人が住むサマリヤの町にも福音を伝えようとされていた。サマリヤ人は、BC722年にアッシリヤによってサマリヤが陥落した後、残された人々とアッシリヤによって強制移住させられた異邦人たちとの混血によって生まれた民族であった。その結果、彼らの礼拝は偶像礼拝に満ちていた。しかし、神はこのサマリヤ人をもご自身の選びの範囲に考えておられた、というのがこのエピソードの伝えるところなのだろう。というのも神がみこころとされる選びの民は、ユダヤ人に限定されるものではなく、民族や宗教的背景、道徳的状態にかかわらず、イエスを救い主として認め、御霊と真理によって礼拝する者たちだからである。イエスご自身は、まずユダヤ人への宣教を優先させたが、復活後、弟子たちにはエルサレムからユダヤ、サマリヤ、そして全地へと宣教の使命を託されている。
サマリヤのスカルという村にさしかかったのは、第六時の頃。かんかんと日の照りつける、ちょうど正午頃であった。イエスが井戸のそばで休んでいると、サマリヤ人の女が水を汲みにやってきたとある。人目を避けてやってきた女にイエスは語り掛けられた(7節)。
イエスは比喩的に語っている。人間の喉が渇くように、心にも渇きがある。夏の日照りの暑さに、喉の潤いを求めるように、人は心の潤いを求めるものだろう。多くの人間は、その思いを一時的で安っぽい喜び、つまりお金や物による快楽で満たそうとする。しかしそれは、決して心を満たすことはない。ここでイエスは、根本的に魂を満たすものについて語る。
先のニコデモの話でもあったが、イエスは、「神の御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」と語った。永遠のいのちというのは、単に長いいのちではない。むしろ、質的ないのち、質的に満たされた今を生きるいのちである。サマリヤの女に必要だったのは、まさにこの新しい命に生きることであった。様々な過去のしがらみに囚われ、人目を避けて生きる、そんな人生からもはや解放されることだった。ついでにイエスは、女の「礼拝」についての質問に答えて教えられる。当時ユダヤ人とサマリヤ人との間では、神を礼拝するためのふさわしい場所が議論されていた。しかし実際の所、ユダヤ人の礼拝もサマリヤ人の礼拝も不完全なものであった。彼らは地上の聖所で動物の犠牲をささげていたが、それは来たるべきまことの礼拝の影に過ぎなかった。これからは霊的な意味を持つ、キリストの完全な犠牲によって神に近づき、神を礼拝する時が来るのである。つまり礼拝は場所や形式の問題ではない。御霊とキリストにある真理をもって礼拝することこそ求められている。また、救いはユダヤ人から出るものを、ユダヤ人は預言書によって知っていた。しかしサマリヤ人は、モーセ五書のみを正典とするため、その知識もなく礼拝をしていた。イエスは、本来求められるまことの礼拝の在り方を教えられた。女はイエスが預言者であると認識し、自分がサマリヤ人であるとしても、メシヤについての知識は持っていることを明確にした(25節)。そんな女にイエスは、自分がメシヤであることを宣言される。メシヤは待ち望まれる必要はなく、すでに来ていたのである。女はイエスを信じ、これを町の人々に伝えた。こうして町の人々も、ユダヤ人のみならずサマリヤ人、そして異邦人をも含めた全世界の救い主として来られたイエスを経験的に知ることになった。
神の目的は遂げられた。老ヨハネが、半世紀以上も前のイエスにまつわるエピソードを振り替えりながら思うのは、この神のビジョンである(35節)。イエスは宣教命令を復活後に託されるが、そのビジョンは既にこの時に語られていた。私たちが出て行くべき所、あるいは、収穫に向かう働きはたくさんあり、それは、イエスがこの世に来られた初めからの目的に沿っている。
46節からの王室の役人の息子のいやしは、第三の救いの出来事になる。おそらくヘロデ王の廷臣であったこの役人は、病気の息子のためになすすべを失っていた。息子は死にかかっていた。そんな父親にイエスは語りかけられる「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」(50節)信じる他にないことばである。父親は、ただイエスのことばを受け止めて、帰るほかはなかった。だからこそ、53節、イエスのことば通りのことが起こって、父親は信じ直すことに導かれている。信じる他にない時がある。つまり、今は信じる他はないという時であっても、それが、後に、しっかりと信じられる、神のことばは真実であると喜びをもって信じられる時に変わることがある。信仰も成長させられるのである。また信仰は波及する。彼も家族も皆、これによって信じた、とある。それは、先のサマリヤの女のエピソードでも同じである。神のビジョンは、ただ一人の魂が救われることではない。その人に関連する多くの人も皆、救い主の存在を認めるようになることにある。老ヨハネの時代には、キリスト教は地中海沿岸一帯に広まっていた。それはまさに、家族ごと救われる、地域ごと救われる、そうしたイエスの働きが目指すものによる、と語りたかったのであろう。ヨハネの福音書の最初の読者が宣教の熱意を、このエピソードによって掻き立てられたであろうことは言うまでもない。