ヨハネの福音書5章

「その後、ユダヤ人の祭りがあって」という。おそらく、3月に行われた、プリムの祭りではないかと考えられている。すでに、バプテスマのヨハネの出来事は思い出話になっているので(35節)、おそらく、イエスの公の生涯の2年目、過ぎ越しの祭りの直前であったのだろう(6:4)。ただ、この祭りは9月に行われたラッパの祭りの可能性もあるとされ、その性質についてはよくわかっていない。

場所は、エルサレムの羊の門の近くのベテスダの池。現在では、エルサレムの北にある聖アンナ教会の北西30メートルで発見された池の跡がそれであると考えられている(その多くはアラブ人の私有地となっており、一部のみが発掘されている)。大きく南北二つの池(男子と女子の巡礼の沐浴用)に分かれ、その池を囲むように5つの回廊があった。その池には神のあわれみによって病気が癒される迷信があった(欄外中)。アラム語で「あわれみの家」という意味を持つベテスダと呼ばれるようになったのは、そういうわけなのだろう。

そこに38年も病気で苦しんでいる男がいた。しかしこの男はもう癒されることは諦めかけていたようである。確かに38年も長く曲がっていたものを真っ直ぐにすることは不可能であろう。しかし神にとっては問題ではない。イエスは、この男をたちまち癒してしまうのである。一般に、ギリシャ語では、病気を言い表す3つの言葉がある。病気全般を総称するノソス。一時的な病気を意味するマラキア、最後にアスセネイアで、普通に生活はできるが、慢性の病気で弱くなっている状態を指す。たとえばパウロが「肉体が弱かった(ガラテヤ4:13)」と語った原語がアスセネイアで、よい治療方法がない、期間が長くかかる、しかし日常生活ができないわけでもない状態をイメージさせる。また、「弱いもので蒔かれ(1コリント 15:43)」がアスセネイアである。人間の腐敗した心、罪深い生活を繰り返す愚かな心が表現される。この病人に使われたことばはアスセネイアであり、イエスが介入されたのは、まさにそうした不可能性であり、人間の心の問題であった。確かに彼は心を正されなくてはならなかった。「良くなりたいか」という神の子のことばに、彼は「ハイ」と答えることはなかった。老ヨハネにとってすれば、あの時、神の御子の前で随分的外れな答え方をした病人がいたな、そんな思いでもあったのだろう。イエスは「起きて床を取り上げて歩きなさい」と実にストレートに、癒しを与え、ご自身の御力を示された。4章に続いて、エルサレムにもメシヤが来たのだ、と言わんばかりである。実際、このエピソードを取り上げたヨハネは、イエスの大能の力を示すことに関心を向けていない。むしろ彼がこのエピソードを取り上げたのは、イエスがこの出来事を通してご自身を神と等しいと説明されたことにある(17、18節)。

しかもその本質は、単に力ある業を行う、ということではない。イエスが神と等しいのは、「人に永遠のいのちを与える力を持つ」ことと(21節)「最後の審判を下す権威」(22節)が与えられていることにある。老ヨハネは、イエスが明確にあの時、神の子と一人一人が向かい合っていた、向かい合わせられていた、裁き主である神の前に立たせられていたと回想する(25節)。

そして19節以降、ヨハネは、イエスが、ご自分の語っていることの正しさを示すために五つの証言に注意を向けさせていたことを記録する。一つは、神ご自身の証言である(32、37節)。そして第二に人間による、つまりバプテスマのヨハネによる証言である(33-35節)。確かにユダヤ人たちは、バプテスマのヨハネを歓迎した、しかしそれも束の間であり、ヨハネが悔い改めと禁欲的生活を要求し、彼が不正に投獄された時には誰も助けようとせず、横暴な王のなすままにした。第三に、イエスに神が成し遂げるように与えられた御業による証言がある。それは、十字架と復活に極致を見る御業による証言である。第四に、聖書による証言である(39-40節)。人々は聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を熱心に調べている。その聖書は永遠のいのちを与える方、キリストを証言しているに過ぎない。そして最後にモーセの証言がある(45-47節)。モーセ律法は、罪人を救うことも永遠の命を与えることもできない。それはただ人の罪を訴え、告発するだけであり、それによって、キリストの十字架にある罪の赦しの恵みへと人々を向けさせるものである。モーセはキリストを証言している(申命18:18)。だからもしモーセのこの意図が理解されるならば、人々は神の赦しと永遠のいのちを求めて、イエスを信じて受け入れることになるだろうに、人々は受け入れなかった。

このキリストの言葉が真実であるとするならば、私たちはどうするべきであろうか。イエスは言う。「もっとも、あなたがたが信じられないのも、むりはない。互いにほめたり、ほめられたりすることは喜んでも、ただ一人の神様からほめていただくことなど、まるで関心がないのだから」(44節)あまりにも目に見えるところだけで生きているがゆえに、神に望みを抱くことができない、ことがある。目を天に向けよ。目には見えないが神がいる。神にはいのちと希望がある。その神が遣わされたイエスが神の伝言、いや神ご自身のことばとして語り掛けていることがある。そのことばに素直に耳を傾けることではないか。そして、自らの思いをすべて神に打ち明け、神の業が成される事を願いつつ、歩ませていただこう。

 

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