6章は、5章の続きである。エルサレムでユダヤの当局者に拒否されたイエスは、ガリラヤでは王として歓迎された。しかし、イエスは、その動機が決してイエスが期待するようなものではないことから、一人山に退かれるのである(16節)。
ヨハネはすでに、サマリヤの出来事とエルサレムの宮きよめのエピソードをもって、イエスがメシアであったことを回想的に示している(4章)。そして、メシアであることの意味が何であるか、イエスご自身が、ベテスダのエピソードを通して説き明かしたことを明確にしている。イエスは、永遠のいのちを与え、終末的な裁きをもたらす、約束の救い主であった、と。ここ6章では、当時の群衆が、イエスの語ったことを理解できず、イエスがメシヤであることを明確に語ったところ、多くの弟子たちが離れていったことを、ヨハネは思い起こしながら、そのエピソードを書き記しているのである。
老ヨハネのこの福音書の読者は、すでに第二世代、第三世代のクリスチャンであったと思われる。彼らはイエスを見たこともない、イエスの肉声を聞いたこともない。彼らは改めてキリストを信じることの意義を教えられる必要があった。表層的に、ご利益的に、また幸福主義的にキリスト教信仰を持とうとするならば、それは、パンの奇跡で味を占め、次のさらなるお得な何かを求めてイエスを追っかけた群衆と大して変わりはない。イエスは、そんな人々の物欲に応えるために来たのではなく、なかなか認識されにくい罪という問題に人々が向かい合い、その赦しと、キリストにあるいのちを求める者に救いを与えるために来られたのである。イエスは地上に楽園を打ち立てようとして来られたのではなく、神の霊的な支配を確立するために来られたのである。ヨハネは、5章に続いて、そのことをさらに丁寧に語るエピソードをここに収録する。
だから6章は、5章に続いて、ある種の緊張感を、エピソードの中に感じる部分がある。イエスは、明らかに、イエスに付き従う者の幻想を打ち砕こうと向かい合っておられるからである(26節)。
実際、イエスは、その生涯の初めから、自分の苦難、十字架、復活を語り(2章)、ニコデモには、そのイエスの十字架による罪の赦しと新生に与るべきことを語っている。ここでも、「なくなる食物」と「永遠のいのちに至る食物」を対比させていることに注目したい。これは、サマリヤの女に対して語った「また渇く水」と「渇くことがなく、その人のうちで永遠の泉となる水」(4:13-14)の対比を連想させる。イエスは、人々を霊的に養う王であり、神の御国へ一人一人を整え導く牧者である。
54-58節、老ヨハネは、イエスがそれをさらに、突っ込んで説明され、ご自分を王としようとする者の勘違いを指摘し、さらにそれでもなおご自分に従うか否かの覚悟を迫ったことを思い起こし、その決定的な講話を記録する。それは「イエスの肉を食べ、血を飲む」というたとえであった。当時のユダヤ人には理解のできないことであったが、それはイエスの裂かれた身体、流された血、つまり十字架の苦しみとその苦しみによる罪の赦しの恵みを日々の糧として生きることを語っている。神が豊かに現された恵みと愛の中に生きていくことを伝えている。今日、キリスト者は、それを具体的に「聖餐式」という形で繰り返している。
つまり私たちは聖餐式に出る度に、自分たちが、この講話を聴いて小声で文句を言って、「これはひどい話だ。誰が聞いていられるだろうか」とイエスとともに歩もうとはしなくなった弟子ではなく、「主よ、あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます」と告白した弟子であると確認する。私たちは、地上のユートピアを求める者ではなく、目に見えない神を認め、神の支配の中に自分自身を位置づけ、イエスと共に天を目指す巡礼の徒として、この地上の生涯を過ごすことを決意するのである。
イエスの言葉に人々は、三種類の反応を示した。イエスを離れる者たち(60-66節)、さらに信仰を深める者たち(67-69節)、そして面従腹背となる者たち(70-71節)がいた。正しい応答が必要である。大切なのは、神の愛と恵みを受け入れて生きることは、五つのパンと二匹の魚の奇跡が示すように、「神の可能性の中に生きる」ことである。信仰を持つことは、立体的に生きることで、人生に縦の軸を加えて、常に神に望みを抱いて生きることを意味する。それは地上のことに終始せず、天上との関わりで、神との関係の中で生きていくことである。だから、キリスト者は、人との関係の中で行き詰ることがあっても、天を見上げ、人知の及ばない可能性を信頼することができるから、決して落胆することはない。また海の嵐を沈めたイエスの奇跡が示すように、いついかなる時も「神の支配」を覚えて驚きあわてることはない。地上の事柄に欠乏することがあっても、神の御旨を覚えて、パウロのごとく、ありとあらゆる境遇に処する心意気を持つことができる。まことの魂の救い主であり、メシヤであるイエスを受け入れて歩ませていただこう。