ヨハネの福音書7章

2節「仮庵の祭りが近付いていた」とある。仮庵の祭りは、過ぎ越し、ペンテコステに並ぶユダヤの三大祭りを代表する。太陽暦では10月の初めに行われ、主として農耕的な意義を持つ収穫感謝祭であったが、ユダヤ人の特別な歴史を思い起こさせる、もう一つの意義を持っていた。つまり、荒野をさまよい歩き、神が幕屋において現れたという(レビ23:33-44)かつての神のお取り扱いを思い出す時であった。

すべてエルサレムから30キロメートル範囲内に住むユダヤ人たちの成人男子は、この祭りに参加する義務があった。たくさんの人々が入り乱れるこの祭の中に、イエスを殺そうとする者たちが紛れ込み、イエスを探し回っていた。イエスの生涯も残るところ後6カ月という時であった。ヨハネはこの時期に起こった出来事を回想する。この章もまた、他の三つの福音書が扱っていないヨハネ独特の記事であり、イエスの正体について巷の人たちが、どのように考えていたのか、当時の事情を明らかにしている。

まずイエスの家族(1-9節)であるが彼らもイエスを信じようとはしなかった。イエスの栄光は、十字架において明らかにされるものであったが、兄弟たちは、6章のガリラヤ人たちのように、奇跡的な力を示すことに現されると考えていた。続いて群衆の思いは分かれていた。ただ、誰も、ユダヤ人の指導者たちが強権を発することを恐れて、自分の思いを明らかにする者はいなかった(13節)。そして、ユダヤ人の指導者たちは、イエスをユダヤ社会の秩序を乱す者と見なし、殺そうと考えるようになった。彼らはイエスが正規の教育を受けていないにもかかわらず律法について深く理解していることに、驚いている(15節)。しかし、イエスが、それは独学によるものではなく、父から来ているものであるとすることばを受け入れられずにいたのである。老ヨハネは、イエスご自身が、神の御心を行おうと願う者のみ、理解できること、受け入れられることであると、語ったことを記録する。マタイとマルコ、そしてルカは、四種類の土地にまかれた種蒔きのたとえを記録しているが、ヨハネにはない。ヨハネは、既に知れ渡ったイエスの種まきのたとえ話をもはや繰り返す必要はなく、当時のイエスの教えに対する反応を具体的に語った、ということなのだろう。

そしてイエスは、ご自分の権威が神を起源とするとしても、単純に神の印篭をかざす権威主義者ではなかった。ご自分を批判するユダヤ人と対話を続けられる。ユダヤ人は、イエスが十戒の第四戒、安息日遵守の戒めを破っていると非難した。しかしそのユダヤ人が、イエスを殺そうと付け狙うことで、第六戒の人を殺してはならないという戒めを破ろうとしていることを指摘する。そして律法によって安息日に割礼を施す、小さな益が認められ許されているとするならば、その聖なる日に、人の全身を健やかにすることは、どれほど相応しいことであるか、と教えられる。実に、安息日は、「神が経験しておられる永遠の安息」を守ることに意義がある。礼拝を守ることでも、仕事をしないことでも、その特定の日を守ることでもない。

イエスは、ご自分に殺意を抱く者の前で、怖気づくこともなく、教え続けられた。そのようにイエスの姿を描く、ヨハネは、「神の時」がまだ来ていなかった、だからイエスは守られて教え続けた、とその時の印象を明確にする(30節)。実に、すべてが神に計画されたとおりに進んでいた。そしてイエスは何の妨げもなく語るべきことを十分に語られたのである。

その頂点となることばが、37節となるのだろう。ついに「祭りの終わりの大いなる日」となり、イエスは劇的な瞬間を捉えて大声を発せられた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」この出来事を理解するためには仮庵の祭を知っていなくてはならない。この祭りの間、人々は、なつめやしと、はこやなぎの枝をもって神殿にやってきた。彼らはそれらで、祭壇のまわりを行進する。同時に一人の祭司が金の水差しを取り、シロアムの池へ降りて行き水を汲んでくる。人々がイザヤ章12章3節「あなたがたは喜びをもって、救いの井戸から水をくむ」を詠唱している間に、その水は泉の門を通って神殿まで運ばれ、神への供え物として祭壇の上に注がれる。この儀式全体は、神のよき賜物である水に対する感謝や雨ごいを意味し、人々が荒野を旅していたとき、神が水を与えてくださったことを想起させるものである。いよいよこの儀式が最高潮に達する最終日、人々は、7度巡回してエリコの町を占領した古事に倣って、祭壇を7度巡回した。その祭りの頂点においてイエスは先のように叫ばれた。キリストの正体を論ずる緊張が高まる中、水の儀式で沸き返り、全てを備えられる神への期待の高まりが重なり、そこに「だれでも渇いているなら・・・・」というキリスト自ら正体を明らかにする声が響き渡った。それは実にインパクトのあるシーンであった。魂のかわきを癒す水が欲しいなら、わたしのところに来なさい、わたしこそ、そのいのちの水であると言うわけだ。雨乞いの儀式をする者たちの中で、いのちの水であり御霊を与えられるキリストがここにいる、と宣言したのだ。パウロが出エジプトをしたユダヤ人がキリストという岩から飲んだ(1コリント10:4)、と語ったのは、このエピソードを知っていたためなのかもしれない。

このイエスをどのように受け止めていくか、これは、聖書が私たちに判断を迫っていることであろう。一般のユダヤ人の評価は、イエスを悪霊に取り付かれていると考える者(20節)、否本当にキリストだと評価する者と(33節)様々であった。頭であれこれ考えていても信仰にはいたらない。かつてひそかにイエスを、夜に訪ねたニコデモは(ヨハネ3:1-22)、よく情報を把握するべきことを主張した。そこに鍵があるのだろう。まずは、聖書を熟読していく。その上で、「心の奥底からいのちの水の川が流れ出る」ようにしてくださるイエスを、受け入れるか否かが問題なのである。

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