ヨハネの福音書9章

ヨハネの福音書の一つの特徴は、群衆ではなく、個人に向かい合っておられるイエスを描いていることだろう。共観福音書とは違って、ヨハネは、個別に対話するイエスを描いている。ニコデモ然り、サマリヤの女然りで、この盲人のエピソードもそうである。
イエスが歩いておられると、生まれつきの盲人がいた。弟子たちが、その盲人についてこう質問している。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」。当時のユダヤの社会では、人が盲目に生まれつくのは、二つの理由があると考えられていた。一つは本人が「胎児の時に、母親の胎内で罪を犯した」からであり、もう一つは、両親が罪を犯した結果だ、という。弟子たちは、イエスの考えに耳を傾けた。しかし、盲人はまるで物扱いである。盲人の前で、こんな議論をすること自体、随分無神経な弟子たちのように思うが、イエスは丁寧に答えている。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神の業がこの人に現れるためです」と。
以前この話を、求道中の方にしたところ、その場で神を信じる決心をされたことがある。あまりにも突然の決心だったので、どうして信じる気になったのか、と後で聞いてみた。するとその人は言った。「こんなことばは、決して人間の口からは出てこないと思った。やはり人間には、その人が罪を犯したからだとか、先祖のたたりがあるからだとか、そんなことぐらいしか言えない。けれども、神の業が現れるためだと確信を持って言えるイエスは、神としか考えようのない存在である。そのことに気づいた」、と。
イエスはこの盲人に、「あなたはメシヤを信じるか」と問うている。男は言った。「主よ。もちろん信じます」自分にかけられたことば、自分の身に起こったことからすれば、男には信じる以外の選択肢はなかったことだろう。イエスは指摘する。「私がこの世に来たのは、心の目の見えない人を見えるようにするため、また、見えると思い込んでいる人に、実は盲目だということを、わからせるため」なのだ、と。イエスの業は、この男の肉眼の目ではなくて、心の目になされたのである。この男は、肉眼の目が開かれただけではなく心の目も開かれて神を完全に信じることができるようにされたのである。
人は生まれながら肉眼の目は開いていても、心の目は閉ざされている。先の8章のユダヤ人たちがイエスの霊的なメッセージを全く理解できなかったのと同じである。人は、生まれながら罪人であり、その罪ゆえに、霊的な感性は破壊されている。その心はひとりよがりであり、狭量な考え方、律法主義的な思い、そして不信仰の闇で覆われている。しかしたとえそうであても、生まれつきの盲目の者の目が開かれるように、生まれつき霊的に盲目な者の心の目も開かれる。
それはどのように起こるのか。盲人の行動は象徴的に教える。彼は、イエスが目に塗ってくれた泥を「シロアムの池に行って洗い落としなさい」と言われたことに素直に従った。受動的に救いを待ったのではなく、イエスのことばに応答した。神のみことばへの従順が、彼の目を開き、魂を完全に救い、神の祝福を受けさせるものとなった。だが、人の心には、神のことばを受け入れようとしない頑なさがある。神のことばに素直に従わない頑なさがある。そこに気づかされて、イエスのみ言葉の権威を認めて、その権威の元にひれ伏し、そこに力があることを認めて信頼し、従うことである。旧約のナアマンの出来事も示すように(2列王5:10)、頑なな罪の心を捨て去ることを、人生のどこかで経験しなくてはならない。それは、これから起こりうる大きな変化に比べればあまりにも細かな拘りに過ぎない。生来の罪が奪った霊的な視力を取り戻すことを覚えるならば、神のことばを受け入れ、従うことは、あまりにも小さなことに過ぎないことを覚えたいものである。
パリサイ人たちは、気分を害し、憤慨して「私たちも盲目なのですか」と問い返した(40節)。彼らは自分たちが霊的な指導者であり、宗教的な洞察力があると主張しているにもかかわらず、実は霊的に盲目であることがわからないでいた。かたや、罪によって霊的に盲目に生まれついた深刻な現実を悟り、その視力の回復を求める人がいた。見えると思う者は、いつまでも見えない。見えないと思う者こそ、神の業を経験することになる。

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