ヨハネの黙示録1章

ヨハネの黙示録は難解な書と思われることが多い。しかし、それは、当時のユダヤ人にはわかるような書き方がなされている。つまりユダヤ人の文化や旧約聖書に親しんでいれば、それほど難しい書物ではない。

まず、これは「イエス・キリストの黙示」である。ヨハネが創作したものではなく、キリストが明らかにしてくださった黙示である。しかも、ヨハネは幻を通して知ったことを、語り伝えている(2節)。彼は語られたことばを聞いてではなく、自分自身が見たすべてのことを証したのである。

なぜか、それは、私たちの幸いのためである(3節)。「朗読する者」は単数形、「聞く人々」は複数形が使われる。つまり黙示録は、公の教会の集会で読まれるように書かれた。そしてただ聞くだけではなく、心に留めるために書かれた。心に留めるは、ギリシャ語で、テーロー。守るという意味。従うという積極的な姿勢で心に留めるということである。

4節、アジアは、当時ローマの支配下にあったアジア州を指す。今日ではトルコであるが、そこに位置する七つの教会へ宛てて書かれた。しかしユダヤ人にとって「七」は完全数である。また「御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」(2:7、11、17、29、3:6、13、22)という命令の繰り返しから見て、当時のアジアだけでなく、世々の教会全体を象徴的に意味していると考えられている。つまり、現代の私たちに対しても語りかけてくるものがある。

それらの教会に、「今おられ、昔おられ、やがて来られる方」から挨拶が送られる。「今おられ」は今も父なる神が万物の支配者であることを意味する。「昔おられ」は、父なる神が創造なる神、創造主であることを言う。「やがて来られる方」は、やがて歴史を閉じられる義の裁き主、実際には再臨の御子イエス・キリストを意味する。だから、ここでは三位一体の御子イエスの神性が明らかにされている。また「その御座の前におられる七つの御霊から」は七を完全数と取れば、完全な神である聖霊ご自身からということ。こうして5節三位一体の神から挨拶が送られることになる(4,5節)。完全な神からのご挨拶である。

その神と私たちにどんな関りがあるのか。6節。キリストが私たちにしてくださったことが列挙される。

①私たちを愛してくださった。

②私たちをその血によって、罪から解き放ってくださった。

③私たちを王としてくださった。

④私たちをご自分の父である神のために祭司としてくださった。

ここに神をほめたたえる根拠がある。

そしてそのキリストは、加えて約束されたとおりに、目に言える形で再臨される、という。その時には、すべての人が、主の正しかったこと、そして裁き主であったことを認めるようになる、という。アルファは、ギリシャ語の最初、オメガは、ギリシャ語の最後の文字である。最初で最後つまり、主は、永遠の主であり、主のことばに偽りはない。主のことばに注意深く耳を傾けべきことが促されている。

さて、ヨハネはこの啓示を受けた時に、パトモス島にいた。パトモス島は、銀山のあった島で、人が住むような場所ではなかった。彼は、キリスト教信仰の故に、迫害を受け、島流しにされていたのである。それはまさに「イエスにある苦難」であったが、同時に、それは御国に与ることとされる(9節)。すでに90歳近い年齢となっていたヨハネにとってそれは、あまりにも過酷な環境であったにもかかわらず、ヨハネはそこで御国の祝福を見出していた。そしてそれが「忍耐」の時であることを心得ていた。苦難にあっても動じないヨハネの姿が印象的である(9節)。

そこでヨハネは幻の内に、イエスに出会っている。イエスは、七つの教会、七つの燭台の真ん中に立っている。この「七」も完全数、全体を現す数字として理解したらよいのだろう。「燭台」は20節で、「教会」と言い換えられているので、全世界の教会の中心にイエスが立っておられるイメージを伝えている。そしてイエスの御姿を7つの直喩(~のような)で比ゆ的に語ろうとしている。「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように雪のように白く」(14節)は、御子の完全な純潔さを「その目は、燃える炎のよう」(14節)は、主の厳しさを伝え、ヨハネはこれら比喩を通して、イエスの素晴らしさと卓越性を伝えようとしている。そしてこの、圧倒的な神の栄光を前に、ヨハネは神の前に深い畏怖を抱いている。実に、神の前に立つということは、極めて厳粛な経験である。それは恐れ多い、地に伏す経験である。しかし、神は私たちに友のように語られる「恐れるな」と。

ヨハネは、今見ていること、そしてこれから後起こると語られる二つのことを書き記すように語られる。黙示録は、当時のユダヤ人、そして今の私たちに対する二重のメッセージを持っている。だからこそ、今の私たちも耳を傾けるに値するものである。そして耳を傾けるなら、幸いであるとされる。なぜなら時が近づいている。歴史の幕を開けられた主が、歴史の幕引きをする時が近づいているからである。これから心して黙示録を読ませていただくこととしよう。

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