天上の話が続いている。天に「巨大なしるし」つまり、「ひとりの女」と「大きな赤い竜」が現れた、という。これをどう解釈するか。こうした黙示録の象徴的な表現については、ジュィッシュ・トラディション、いわゆるユダヤ古典文学との関連を調べる研究がある。つまり、旧約聖書のダニエル書とかエゼキエル書との関連、また、プロテスタント教会では正典外とされる「マカバイ記」や「イザヤの殉教」といった、当時、ユダヤ人が聖書と平行して読んでいた文学作品との関連を調べるものである。というのも、これらの作品に出てくる象徴的な表現と黙示録の表現には類似性があって、またヨハネもこういう作品に触れていたであろうと考えられるからだ。それはありそうなことである。というのも、ヨハネは一度に幻を見たわけではなく、何回かに分けて見た可能性がある。そしてヨハネは幻を見た後、その幻の意味を思い巡らして探り、自分が悟らされたことを過不足なく伝えるにはどうしたらよいかを考える時間もあったことだろう。そこで、当時のユダヤ文学の表現や構成を用いようとしたことは、考えられなくもない。
さて「ひとりの女(1節)」については、幾つかのとらえ方がある。後の「竜」との関連で考えるなら、基本的に創世記3:15の「女とサタン」との対比に基づいて考えるべき存在なのだろう。「太陽を着て」これは詩篇104:2と関連している。つまりイスラエル史の中で真のイスラエルは太陽の光のように神の栄光を輝かせた。また「月」は暗黒の支配者。暗黒の力に打ち勝つことの象徴。「12の星の冠」は、ステファノン、栄誉のしるしとしての冠で、イスラエル12部族を象徴している。この女性は「みごもっていた」とある。メシヤを産み出した真のイスラエルである。というのも、真のイスラエル人たちは、人々に信仰が回復されることを祈り、メシヤを待ち望み、苦しんだからである。その真のイスラエル人たちの祈りの中に、メシヤが生まれる(5節)。だから、「女性の子孫」は、現在に至るまでのクリスチャンと理解される。
そこで「竜」について、9節に簡単な解説がある。「この巨大な竜、すなわち悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」。人類の歴史の始めに、アダムとエバを惑わし、堕落に至らせた「古い蛇」、「サタン」であると説明される。「赤い」は、ギリシア語で「ピュロス」、火のような赤で、「殺戮」を象徴することば。まさにサタンの形容詞としてふさわしい。さらに、「七つの頭」。ユダヤで七は完全数。だから七つの頭は完全な頭。つまり大変賢い、あるいは狡猾な存在であることを言っている。また「十本の角」は力の象徴で、この世に対する支配権を持っていることを意味する。実際「冠」と訳されたギリシア語は、ディアデーマ、つまり王権のしるしとしての冠。赤い竜が支配権を握っていることを意味する。
この両者の間に戦いが起こる。竜はメシヤを滅ぼそうとするが、失敗して、地に投げ落とされてからは、真のイスラエルと、その子孫であるクリスチャンを滅ぼそうとする、しかし、真のイスラエルは守られていく、というドラマが展開される(16節)。そこで、竜が激しく怒り、さらに追跡し、クリスチャンの運命はいかに、それが次の13章の記事となっている。
つまり天上の目に見えない戦いが描かれていて、そこでの勝負はついてしまった、という点が重要である。この地上は様々な矛盾と不本意な出来事に満ちていても、天はもはやそうではない。「天に、彼らのいる場所がなくなった」からである(7節)。また、「日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が」退けられたからである(10節)。なぜか?それは、復活の主が昇天し、天に戻られたことによって、天が、罪の赦しの恵みによって支配されたからである。もはやだれも天において私たちを告発する者はいない。告発者は今地にあるのみ。そして自分の時の短いのを知り、激しく怒って、神の戒めを守り、イエスのあかしを保とうとする者たちと戦おうとしている、とある。だからクリスチャンにとってこの世は生きにくいところがあるだろう。この地上において、信仰を持つことは、それぞれが戦いを覚悟しなくてはならない、だがその信仰はすでに勝利を約束されたものである。