ヨハネの黙示録14章

1節、「また私は見た」場面転換が起こっている。視線は天上の144,000人に向けられている。彼らには、「子羊の名と、子羊の父の名が記されていた」という。それはちょうど、13章で獣に刻印を押され獣の支配下にある人たちと対比される人々であり、子羊の贖いに与った人々である。すでに7章で述べたが、144,000人は、12の二乗に完全数10の三乗を加えたもので、エホバの証人が言うような、文字通りの144,000人ではなく、救いに与る者全体を指している。
 彼らは、「御座の前と、四つの生き物および長老たちの前で、新しい歌を歌った。しかし、地上から贖われた十四万四千人のほかは、この歌を学ぶことができなかった。」という。その「新しい歌は、実際には、次の15章の3節から出てくる、モーセの歌と子羊の歌のことである。最初は、贖いの賛美、二番目は神の正しい裁きがいよいよ明らかになることへの賛美である。4節、新しい歌を歌う者の資格として「童貞」があげられる。それは、結婚していないということではなくて、偶像礼拝の罪が不品行とか姦淫と語られるように、偶像に汚されていないことを意味する。「子羊が行く所にはどこにでもついていく」は、救い主への忠誠と服従を特徴とする人々である。
ここで押さえておくべきことは、黙示録には、イエスやクリスチャンを二つのイメージで描く特徴があることだろう。つまり軍事的なイメージと犠牲的なイメージである。たとえば5:4-6。イエスが二つのイメージで描かれている。「ユダ族から出たしし、ダビデの根」これは軍事的なイメージである。そして6節「ほふられたと見える子羊」これは犠牲的なイメージである。それと同じで、クリスチャンについても、144,000人という統計値は戦力を意味し、「童貞」も、ユダヤ人には戦時下にあっては、敵に隙を見せない緊急特別措置として性的な営みを控える習慣があったから軍事的なイメージそのものである。地上の信仰の戦いを戦い抜いてきたクリスチャンが、天に凱旋し、神の御前に整列している姿を描いているに過ぎない。
そして「子羊が行く所、どこにでもついて行く」は犠牲的なイメージである。5節の「彼らの口には偽りが見出されなかった。彼らは傷のない者たちである」は、単にクリスチャンが真実だと言っているわけではない。当時のユダヤ人は、傷のない動物を、いけにえとしてささげた。つまりささげもののイメージでクリスチャンが語られている。
さて6節「もうひとりの御使い」は、厳しい状況の最中になお、全世界に救いの福音が宣べ伝えられるという使命を実行に移していく人々を意味する。7節。私たちは福音を、喜びのおとずれ、救いの福音としてだけ受け止めがち。しかし、福音が神を信じる者に救いをもたらすということは、同時に、神を信じることなく、偶像を拝み続けて来た者には、裁きがもたらされることを意味する。そういう意味では、神の裁きの時が来るのだ。
 8節、さらに「第二の、別の御使い」がバビロンの倒壊を宣言する。バビロンは、象徴的にローマに代表される豪奢な都市文明を意味している。そして第三の御使いの宣告が続く(9節)。地上の権力に蹂躙される絶望的な状況の中で、神の戒めを守り、信仰を持ち続けるように聖徒たちの忍耐が勧められる。そして『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』(13節)と続く。
14節は、イエスの毒麦のたとえ(マタイ13)の現実化である。神の裁きが実行された。 
日本のような平和で豊かな物質主義の時代に生きていると、こうした迫害と死に直面する中で生きている人々に対して励ましとして語られたことが、何か、とてつもなく、まじめで、犠牲的に生きていくことをよしとしているような印象を受ける。しかし、大切なのは、13章からもう一つのテーマが語り始められていることに気づくことだろう。それは、19章まで続いていて、17章からいよいよ明確になるテーマである。つまり17-18章には、8節の第二のみ使いが予告したバビロンの崩壊が詳しく描かれている。そのバビロンの崩壊は、既に述べたように、ローマ帝国の繁栄と豊かさの滅亡を意味している。当時の迫害は、まだ地域差があり、広いローマ帝国の中には、皇帝礼拝が強要されない地域もあった。だから、キリスト教会の中には、他の地域で苦難に晒されているキリスト者を思うこともなく、ローマ帝国時代の繁栄と豊かさに浸りきっている状況もあった。ヨハネは、他人の痛みに無関心なサルデスの教会(3:1-6)や富みや豊かさの中に浸りきっていたラオデキヤの教会(3:13-22)に警告を与えているが、この17-19章において、もう一度、その問題を象徴的に語っている。つまり、大淫婦の象徴は、経済的享楽や搾取の時代の流れに巻き込まれ気づかずにいるキリスト者に対する警告である。
イギリスの黙示録研究の第一人者であるボルカムという神学者は、まさにこの17-19章は、平和を保障された先進国に対する現代的なメッセージである、と語った。現代の日本も享楽的な雰囲気に溢れている。その雰囲気に呑まれて、迫害下で苦しんでいる兄弟姉妹の存在を忘れ、この世の人々と変わらない生活にあるとしたら、その人生は、獣に刻印を押され、淫婦に貢ぐものと変わらない、大淫婦と共に滅びるものに等しい、と言っているのである。
終末の苦難は、迫害だけではない。それは享楽に惑わされることでもある。豊かさが、私たちの感覚を狂わせていくことがある。今の時代がどんな時代であるか、識別の目をもって、信仰の歩みを進めさせていただこう。

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