これまで、七つの封印(6-7章)、七つのラッパ(8-15章)、と二つの災いのサイクルが描かれてきた。ここで、7人の御使いが、最後の災害を携えて登場する。しかし2節、ここでは、13章で激しく迫害を受けた信仰者が、解放され、勝利の歌を歌っている姿が描かれている。「彼らは、神のしもべモーセの歌と子羊の歌とを歌っている。モーセの歌は、かつてイスラエルの民が紅海を渡ってエジプトを脱出した時に(出エジプト15章)歌った歌である。
出エジプト記14章30節には「イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た」とある。エジプトから脱出したイスラエル人たちは、紅海の対岸に辿り着いていた。そして15章1節、モーセとイスラエル人は主に向かって、この歌を歌ったとある。一方、黙示録15章2節、勝利したクリスチャンたちが「ガラスの海のほとりに立っていた」とある。このガラスの海は、4:6にあるように、神様の御座の前、天の都にある。そこに、クリスチャンたちが立っている。そして彼らは、モーセの歌と子羊の歌を歌っている。明らかに、黙示録の光景は出エジプト記のものを背景として描かれており、歌われている歌も替え歌になっている。
出エジプトのモーセの歌では、神様が苦しみから解放してくださった、神様は悪い者を裁いてくださった、ことが具体的に歌われている。そして何度か繰り返して読むと分かるが、褒め称えられている神は、あくまでもユダヤ人の神は素晴らしいという調子である。しかし、黙示録の替え歌は、もっと積極的である。苦しみから解放してくださった神様は素晴らしい、偉大であると言う。けれどもその言い方は、比較ではなく絶対的である。ただあなただけが聖なる方です(4節)。聖なる方、これはヘブル語ではカドーシュ。区別されたという意味が原意。つまり、「あなただけが区別され、抜きんでた唯一の神です」という意味になる。そして「すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します」とある。
また、黙示録の歌は、子羊の歌であるとされる。それは、旧約の出エジプトと黙示録の新しい出エジプトの性格の違いから来る。旧約ではイスラエル人たちは、エジプトで奴隷状態にあり、彼らは虐げられ苦しんでいた。そして神様がその呻き、叫びを聞いてくださって、解放してくださった。それで、彼らは神様の正しい裁きをたたえ、感謝する歌を歌う。一方、黙示録では、クリスチャンたちは、同じようにローマ帝国の迫害の中で虐げられ苦しんでいるが、その苦しみと積極的に戦っている。キリスト者として生きることが難しい社会状況の中にありながら、キリスト者として生きることに血を流している。最後までキリスト者として生き抜ぬいて、勝利を勝ち取っているのである。彼らは、ただ苦しみから解放されただけではない、勝利したのである。だからこそ子羊の歌を歌っている。実際イエスも、十字架の苦しみに勝利し、神の右の座にお着きになったのだ。
神は私たちに勝利を約束してくださっている。そこで、自身を神に対する最高のささげ物として日々ささげて生きていきなさい、というメッセージも出てくる。11章には証人のイメージが示された。クリスチャンとして生き抜くことを証しする者のイメージである。12章では、一人の女と赤い竜のイメージで、証人が迫害され蹂躙される様が語られている。13章も同様、ローマ帝国で強制された皇帝礼拝に伴う迫害が「海の獣」「地の獣」のイメージに重ねて語られる。14章は、その迫害下で信仰を守り抜き、戦い抜いたクリスチャンたちが天に凱旋しているイメージが描かれている。15章は完全なる勝利の歌を、神の御前で歌い上げている。
一連のドラマをとおして苦しめられる者への慰めのメッセージが、語られている。簡単に言えば、苦しめられる者には、新しい出エジプトがあり、十字架の勝利がある。だから、勇気を持とうというわけである。神への信頼と希望を持つ一日としたい。