ヨハネの黙示録17章

旧約聖書では、神の選びの民とされたイスラエルが、その契約を破って偶像礼拝をすることは、しばしば姦淫と表現されている。それはイスラエルこそが神の花嫁であるからだ。一方異邦人は神の花嫁ではないので、彼らの偶像礼拝は、無節操な遊女の淫行、あるいは不品行と表現される。だから2節、地の王たちは、イスラエルではなく、異邦人たちのことを言っている。彼らは、この女と不品行のぶどう酒に酔っていた。つまり、まことの神に背いて、偶像を拝み、あるいはそれぞれの偶像を造り上げ、罪と快楽の生活に耽っていたという。
 その大淫婦は、緋色の獣に乗っている。イザヤは、罪を緋色(イザヤ書1:18)に例えている。神に反逆する性格が現されているのだろう。実際紫や緋色は、その染料が高価であったから、贅沢を象徴する。つまり富みにおごり高ぶっていることを象徴する。ヨハネは、この女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っている姿に驚いている。滅亡を期待したのに、裁かれることもなく思うままに振る舞っていたからなのだろう(6節)。御使いは、ヨハネに驚くに値しない、と語りかける。というのもそれは、神を信じる者にとっては、あらかじめよく理解されていることではないか、というわけである。この世の権力の盛衰とは別に、享楽主義はいつの時代も人の心を支配してきた。神に逆らう権力者たちは、富を巡って争いを続け、自ら内部分裂を起こし、利害に対立し、崩壊してきたのである。彼らは昔はいたが、今はいない、けれども、また自然発生的に、女にまとわりつきながら共に起こってくる存在である。その権力者たちは、子羊に戦いを挑むが、子羊に勝つことはできない、という(14節)。獣と女は、滅ぶ定めにあるということだろう(16節)。ヨハネの時代には、ローマが世界の征服者であった。その支配下にはローマに従属する国々とそれぞれの王たちがいた。この大帝国もその内部分裂から滅びていった。それ以降の歴史も、世界を制覇した支配者たちが、出現しまた消え去る事の繰り返しであった。こうして、さらに詳しくバビロン滅亡の状況が18章に続いて語られる。
さて6~16章までは、封印、ラッパ、鉢という三つのイメージで繰り返し語られる、恐ろしい災いのたとえ話によって、終末へ向かう人類の歴史と裁きが要約されていた。その中で迫害の試練に会い、苦しむクリスチャンへの励ましと希望が描かれていた。この17章からは、同じ終末的状況であっても、別のテーマ、つまり、苦難とは別の形の試練にさらされるクリスチャンに対する警告が描かれている。つまり、ローマ帝国の富と豊かさに与り、その平和と豊かさの中で、信仰的にぼけてしまったクリスチャンに対する警告である。終末状況ですべてのクリスチャンが苦しむわけではない。ある者たちは、安逸をむさぼっていた。サルデスやラオディキアの教会がそうであったように(3章)。ヨハネはローマ帝国を旧約時代に栄えたバビロンのイメージでとらえ、まさに売春婦が真面目な青年の心の隙や弱さにつけこみ、その生活や家庭を破壊してゆくように、ローマ帝国に蔓延した享楽に毒されていくクリスチャンに対する警告を発しているのである。富と放縦の「大淫婦」と例えられたローマもバビロンのごとく破局を迎えるというのが17-19章の要点である。
人間の心には、もっとしゃれた家に住みたい、おしゃれをしたい、あるいは高学歴を身につけて、よい地位を得たいという気持ちがある。それは汚い欲望かというと、そうでもなくて、人間を向上させる大切な欲求でもある。けれども、人間には、神様が与えてくださったもの以上に、それを求め出す弱さがある。向上心をどん欲な欲望に変えてしまう罪の心がある。楽しむだけではなく、虜にされてしまう弱さがある。そういう弱さに、サタンはつけ込んでくる。
 つまり神様が与えてくださったものを楽しむのはよいのだが、それを手放せなくなる、世の富や豊かさというものが、神様となり、支配されることが問題。すべてを与えてくださるのは神であることを決して忘れてはいけないのである。そしてこれは、ローマ帝国内に平穏に住むクリスチャンたちだけではなく、現代の私たちの問題でもある。すべては、神に与えられて生きている。すべてを与えてくださる神をこそ、大事にし、崇めて歩む者であろう。

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