1-6節の間に「千年」ということばが6回出てくる。これをどう理解すべきか、キリスト教神学に出て来る千年期の考え方は、この箇所のみで判断する以外にないものである。他の書には出来ないものだ。そこで三つないし四つの考え方がある。
一つは、キリストの地上生涯から再臨までの教会時代を指す、象徴的な表現である、とする考えである(無千年期説)。だから「第一の復活」(6節)は信者の新生経験を意味すると考える。しかしこの時代は、サタンが縛られ、キリストが支配する時代のはずであるが、世の現実は全くそうではない。
次に、これを修正した解釈として、千年は文字通り限られた時間ではなく、象徴的に捉え、そのようなキリストが支配する時期があり、その終わりにキリストの再臨があると考える(20:11)(千年期後再臨説)。つまり千年期は、キリストが地上で治める期間ではなくて、キリストの霊的な支配、神の国がだんだん浸透していく様を意味する。確かに、神の国はある意味でこの世の霊的な事実として始まっているが(マタイ12:28)、それは、未来に完成するものとして示されている(マタイ19:27)。
19世紀の終わりから20世紀初頭にかけて、こういう解釈をとる人は福音派の中にも多くいた。進化思想の影響や、教育が進み、様々な福祉が発展する社会変化から、人間や歴史の未来について楽観的に、あたかも千年王国と言えるような時代が来ると予感されたためである。しかし二度の悲惨な大戦を経験した20世紀後半はそういう楽観主義も急速に後退した。
そこで第三に、千年期を象徴的にではなくて、文字通りにとる考え方がある(千年期前再臨説)。千年期は20章に記された順番で展開されていくと考え、千年期の前にキリストの再臨があると解釈する。ジョージ・ラッドの『神の国の福音』はこの考え方をよく説明するものである(古典的千年期前再臨説)。千年王国はキリストが地上で支配される、キリストの王国であって、ダビデの王国の回復や実現ではない。つまり、ユダヤ民族を神の救いの計画の目的としてではなく、手段として考える。救いの計画そのものは、全人類を対象にしており、その達成の手段としてユダヤ民族が選ばれ、特定の役割を果たしたと考えるわけである。これが完成した時に、永遠の新しい天と新しい地が始まると考える。戦後福音派が影響されたのは、この千年期前再臨説であるが、こうした古典的・歴史的千年期前再臨説ではなく、第四のディスペンセーション主義に立つ千年期前再臨説(ディスペンセーション主義の千年期前再臨説)であると言った方がよい。ディスペンセーションというのは、世代や区分を意味することばであるが聖書全体の歴史を七つの聖約期として整理して理解し、千年期を最後の七番目の王国の聖約期であるとする。そして、その王国は、旧約に預言されたユダヤ人のためのダビデの地上の王国であると理解する。あくまでもユダヤ人のための千年期であると解釈する。つまりユダヤ民族を神の救いの計画の目的と考えるのである。極端な字義主義的解釈をする立場である。
無千年期や千年期後再臨と考える改革派系統の人は、世の中はだんだんよくなると考えるので、社会実践に積極的になる。多くのミッションスクールやキリスト教病院を立て、キリスト教化を真剣に考え、宣教を強く動機づけられる。一方千年期前再臨(ディスペンセーション主義)と考え人はこの世の改革に悲観的な発想をする。人がどんなにあがこうと、この世は悪の頂点に向かっている、とひたすら望みを次の世に置くからである。それに対して、ラッド(古典的千年期前再臨説)は、福音の進展も、現実の問題として悪の力の増大も認め、キリスト者は現実的な対応をとらなくてはいけない、という考え方を持つ。
自由主義者は、ほとんど千年期後再臨説で、千年期そのものについても象徴的にとらえる傾向がある。逆に福音派の人々は、これを文字通りにとらえ、患難期をどこに位置付けるかという細かな議論に立ち入り、行き過ぎた議論があった。どの立場に立つかは個人の確信ではあるが、現実の世に対するキリスト者としての立ち位置を決める重要なものである。
さて12、13節、当時、地上で死んだ人については、死後、皆「黄泉」に下ると考えられていたが、海で死んだ人がどうなるかについては、全くわからないことであった。ところが海の深みがもはや神秘ではなくなるという。これは、歴史の隙間に消え去って、わからなくなったと思われる人が、終末においては神に覚えられていて、その人もまた行いに応じて裁かれることを語っている。これは誠実に人生を歩みながら、様々な矛盾の中で苦しみ、社会の狭間に落ち込んで消滅しそうな心境にある人々には、恵みのことばだろう。逆に、行いが正しくない人にとっては、裁きのことばである。なお、聖書的な意味での死というのは神との断絶を意味する(14節)。永遠の死は、永遠に神から引き離されることであり、永遠のいのちは、永遠に神と共にあることなのだ。そしてその死も、ハデスとともに、滅ぼされる、という。もはや、あの世において死を見ることはない。すべては過ぎ去った、と21章の希望の章につながれていく。