1節「以前の天と、以前の地は過ぎ去る」ある。聖書は、やがてこの世のものがすべて過ぎ去ることを語る。多くの人は、この世はいつまでも続く、たとえ滅亡の危機があったとしても、人間の力でその危機は回避される、とハリウッド映画のように、と考えているのではないだろうか。しかし、そうではない。人類の歴史は終焉に向かっている。神がご計画に従ってこれを「終える」時が来るのだ、とはっきりと語る。神がご自身の主権によって世界を始め、世界を終えられるのだ。また、単純に終わるのではない。そこに色々な内容がある。ファイナルステージでは、イエス・キリストの再臨があり、復活があり、千年期があり、裁きがあると語る。そして、もう一つ大切なこと。それが「新しい天と新しい地」という教えである。
歴史は終焉に向かっている。けれどもそれは悲惨な滅亡へ向かう終焉ではなく、終わることによって新しい始まりがある、希望の終焉である。ここが聖書の終末史観の最も大切な点である。聖書は終末を語り、恐怖を煽ろうとしているわけではない。むしろ、新しい始まりのためには、今の世は終わらなくてはならない。そしてその新しい始まりがいかに素晴らしいものであるかと語る。21、22章は、その新しきもの、新しい都エルサレムの特色を述べている。
一つに、その新しい世界では、今の世の中では当たり前の悲しみ、叫び、苦しみがない。 なぜか。たとえば私たちは、至る所で、色々な生きにくさというか、人間関係の難しさを感じて生きている。それは、結局、自分中心に物事を考え、行動する罪の問題があるからだ。しかし、新しい都、エルサレムに入る人は、キリストの前に自分の罪を認め、悔い改めた人のみである。自分中心な者は一人もいない。だから素晴らしい。だから、もはや悲しみも叫びも、苦しみもない。8節。「おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、地獄である」とある。しかしこうして改めて考えてみると、新しい都エルサレムに入れる人など誰もいないように思えてくる。私たちに神の御国はとうてい相応しいとは思えない、と言う人は多いだろう。
しかし、聖書が言う通りに、やはり、私たちはキリストにあって、そこに迎えられるのである。私たちには御国を受け継ぐ、何の働きも、功績もないとしても、キリストの十字架には、その力があるし、その恵みがある、というわけである。キリストの功績の故に、私たちは永遠の聖なる都、新しいエルサレムに迎えられるのだ。私たちは終焉を超えて、悲しみ、叫び、苦しみのない、素晴らしい祝福の場に向かっている。
16節から、その都の特色が語られている。一万二千スタディオン。一スタディオンが185メートルなので、計算すると2220キロメートル。大ざっぱにアフリカ大陸を底辺とした立方体。そんなサイズである。これは大変大きな都。東京も大都市であるが、アフリカ大陸を底辺とする面積の都市というのは、ちょっと想像できない大きさだ。しかし、重要なのは、「黙示文学」は、たとえ話であるのだから、そこは非常に大きな都という捉え方で十分だ。また城壁があることから、入れる人と入れない人がいるという理解で十分である。さらにその都は、様々な宝石で飾られている(18節)。これも、私たちが経験しえないことを、私たちの現在の経験から推しはかれるように語ろうとする試みである。大変素晴らしい場所という程度の理解でよい。このように全てがたとえで語られているのだが、天の都は、22節にあるように、神様を中心として、一日中皆が喜び、楽しむ場として描かれている。そこには夜がない(25節)。夜がないというのは、それほど、新しいいのちが充実していることを物語るのだろう。27節「すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。子羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。」イエスの救いを受け入れる、つまり、遜って、イエスの尊い犠牲による罪の赦しの恵みに与り、狭い道を歩み続けた者だけが辿り着ける場である。確かにこの救いの恵みに与る者とさせていただこう。