5番目になるが、サルデスにある教会に対するメッセージでは、イエスが、ご自身を「神の七つの御霊、および、七つの星を持つ方」としている。七が完全数であるとすれば、完全な神、すべての教会の牧師に支配を及ぼしている神、と理解してよいのだろう。そのキリストが語る。「なたは、生きているとされているが、実は死んでいる(1節)」サルデスの教会は、一見教会として機能しているように見えている。しかし、それは機械仕掛けの「鑞人形の館」に過ぎなかった。見かけは、生きているように見えても、命はない。確かに活動をしてはいても、世の光、地の塩というにはあまりにも存在感のない教会だったのである。
イエスは、新しい命を燃やすように命じている。第一に目を覚ましなさい。霊的にまどろんでいてはならない、そして、死にかけている他の人を力づけなさい、と。サルデスの教会には、望みがあった。まだ息をしているキリスト者に、他の兄弟の命を揺さぶるように、と命じている。また、あなたへの働きかけを思い出しなさい(3節)、という。神は、罪のぬかるみから彼らを引き上げられた。それは彼らが神に従順な者となり、熱心によい行いをするようになるためであった。私たちは、滅びることのないように救われたばかりではなく、永遠のいのちと神の聖さに与るように救われたのである。だから、堅く守りなさい(3節)、という。信仰の真理を理解することと、それを生活の中に活かす(堅く守る)こととは全く別である。イエスは、サルデスのキリスト者に、信仰を実際に活かすように命じられた。聖書はその人の思想を変え、言葉を変え、行動を変える。だから最後に、悔い改めなさい(3節)という。そうすれば、三つの祝福がもたらされる、という。それは永遠の義、市民権、賛成票の三つである。つまり、私達の地上におけるキリストに対する忠実さが、神に認められ、永遠の報いとなることが約束されているのだ(5節)。
次にフィラデルフィアの教会。フィラデルフィアのキリスト者は、小さな群れであったが、大きな可能性を秘めている集団であった。というのも彼らは神の言葉を忠実に守り、迫害の中でキリストに堅く立つ者たちだった。教会の真価は、人数の多さや外観の華やかさによらない。どんなに小さな群れであろうと、そこに信仰のいのちがあればそれは賞賛に値する。イエスは彼らの前に伝道の門戸を開くチャンスを与えられた。実際フィラデルフィアは、地理的に東の玄関口として知られる重要な拠点にあったので、ギリシアの文化と言語を、ルデヤやフルギヤに広める戦略的な拠点として用いられた都市である。神は、この小さな都市を、トルコに福音を運ぶ機会として用いられようとしていた。イエスは、約束される。フィラデルフィアの教会の勝利と守り、そしてそのよき名声である。イエスは、「忍耐について語ったことば」を守り、彼らの持っている「少しばかりの力を」保持し、主の再臨を待ち望むように勧められる。
最後にラオディキアにある教会。ラオディキアは、経済的に豊かな町で、AD60年の大地震において町が破壊された際に、ローマ帝国の援助を一切受けずに、市民だけの経済力で街を再興することができるほどであった。その有り余る豊かさに、ラオディキアにある教会もまたまどろんでいたのである。豊かさの中で、燃えるような熱心さを持って戦うことを忘れた教会、それがラオディキアにある教会であった。そこでキリストは、まず彼らの豊かさが、創造者であるキリストから来ていることを思い起こさせている(14節)。そして、霊的な事柄に無関心である、彼らの問題を暴露する。主は、なまぬるい状態に吐き気を催しながら、懲らしめを与える前に悔い改め立ち返るように勧める。キリストは叱責するが見捨てるわけではない。霊的な炎を燃やすように勧めているのである。
以上イエスは、7つの教会それぞれに特定の私信を送り、最後に至りもう一度、全ての教会が自身と出会うことの重要さを繰り返している。初めの愛に冷えたエペソの教会は、新鮮なキリストの愛に触れる必要があった。苦難を恐れていたスミルナの教会は、復活し勝利した力あるキリストに触れる必要があった。教理的に妥協し、いい加減な生活を送っていたペルガモンの教会は、忠実なキリストと交わる必要があった。道徳的に妥協し、堕落の一途をたどっていたティアティラの教会は、キリストの聖さに触れる必要があった。霊的に無関心の状態にあったラオディキアの教会は、熱いキリストの熱意に触れる必要があった。心の戸を叩き続けるキリストに、その扉を開くのは、私たち自身である。悔い改め、主に従っていく、私たちの意思が問われている。私たちが心を開かぬ限り、なんらそこに、新しい歩みは起こらない。信仰の前進のために、私たち自らが心を開いて、一歩踏み出すこととしよう。