「巻き物」(1節)は、ギリシア語でビブリオン、単数形である。大体、AD2世紀頃までは文章はパピルス紙を使った巻物で、その標準サイズは、縦が25センチ、横が20センチ程度の一枚の紙を、横につなぎ合わせて、書き足していた。封印が7つある、ということは、七か所で封印された一つの巻物を解いていった、ということだ。「内側にも外側にも」とあるが、普通、巻物の両面に書くことはないが、長いメッセージの場合は別であった。ともあれ、この巻物は、封印されていた。そして、封印を解くことのできる人はこの地上には見つからないでいた(3節)。それでヨハネは激しく泣いていた、という。なぜ泣いていたのか。すぐにイエスが解けると彼は考えず、誰か自分たちの中に解ける者がいるのではないか、しかしいない、と泣いていたのである。興味深いところではないか。初め彼はその封印を解くのは、御子イエスの役割とは考えなかったのだ。むしろイエスのしもべたちの中にその者がいると考えたが、誰一人相応しい者がいないことに愕然としたのである。実に私たちがしがちな発想である。私たちは、どうしても人の中に英雄を求めやすい。しかし、神の前に栄光を受ける者は誰一人いない。ただお一人、キリストがいるだけである。長老の一人が言う。「泣いてはいけない。ユダ族から出た獅子、ダビデだけの根が」つまりイエスが、勝利したから、という。
創世記には、「ユダは獅子の子、王権はユダを離れず」(49:9)とある。ユダの末からダビデが出て、ダビデの末からイエス・キリストが誕生したことを背景とする。また「屠られた姿で」(6節)も、イエス・キリストを意味する。勝利者と殉教者、二つのイメージでイエスが語られている。これに「七つの角と七つの目」がある。「七」は完全数を示す黙示録特有の表現で、「角」は、全能の力の象徴。「目」は、聖霊であると注釈されている。つまり、聖霊の目を通して、キリストが全てを完全に知っておられる全知性を示している。全知、全能のお方である、ということだ。大事なことは、この巻物を解く相応しさは、倫理性にあったわけではないことだろう。この世界をお造りになり、その歴史を支配し、導き、かつ、人類救済のその歴史における重要な偉業、十字架を成し遂げたイエスこそ、歴史の最終章を記す(6:1で封印を解く行為からして、それは6-21章の内容と理解できる)、巻物を解くに相応しいお方である、ということだ。私がアルファであり、オメガ、というイエスこそ、歴史の始まりと終わりを導かれるのである。
しかも、8節、巻物が受け取られた時に、四つの生き物と24人の長老たちが、子羊の前にひれ伏し、その手には、この方をたたえる竪琴のみならず、香に満ちた金の鉢があった、とされる。そして香は聖徒たちの祈りであったという。一種感動を与える光景ではないか。私たちの祈りが、金の鉢に蓄えられていた!神はこれを、金の鉢に蓄え、それを大切にとっておられたのである。空しいように思われる祈りであれ、空しいということはない。「金」の鉢ということが、私たちの祈りを神が大事にしていることに他ならない、と思わされるところではないか。そこで感動をもって、竪琴を奏でながら、新しい歌が歌われる。イエスが成し遂げた贖いの業、そして肝心な点であるが、私たちは贖われた以上の使命を託されている。王国とし祭司とされた、今や地を治める。この意識に立って、地上の人生を歩めばこそ、後に、彼らと共に、その喜びの生涯の賛美をささげることができるだろう。
「新しい」(9節)には二つのことばがある。時間的に新しいことを意味する「ネオス」と質的に新しいものを意味する「カイロス」である。黙示録では一貫してカイロスの方が使われる。つまり、新しい歌は、これまでになかった質的に新しい歌を意味する。新しい歌で、巻物を受け取る主が賛美されている。大切なのは、巻物を受け取った小羊に対する応答して礼拝がなされているイメージを捉まえることだろう。御座と生き物と長老たちとの回りに多くの、万の幾万倍~これは無数の一つの慣用句である。作られたすべてのものが、御座に座る方、つまり父なる神と小羊に、栄光を帰したのである。
これまでの流れをみると、4章では、天地創造の神に対する礼拝、5章では御霊を持つ子羊、イエス・キリストに対する礼拝、つまり三位一体の神に対する天の御国での礼拝の壮大な光景が、人間のことばで伝えられている。これを当時の読者の立場で読むなら、どのように読めるのだろうか。当時のクリスチャンたちは、ローマ皇帝の支配と戦っていた。すでに話したように、スミルナの教会(2:10)、ペルガモの教会(2:13)、そしてサルデスの教会もそうであった(3:4)。国家的な権力による暴力と迫害という困難の中にあった。そういう苦しみの中にある人々に、この手紙は書き送られた。
そこで当時の読者たちは、この手紙を読みながら、地上の苦しみの中から天上の栄光を見上げるように促されたのである。ローマの支配に勝る、もう一つの支配があることを思い起こさせられた。それは苦難に耐え抜く力に大変な大きな違いをもたらした。やはり、苦難にあって、その目に見える苦難以上に、苦難をも許される神様がおられる。神様が一時的に苦難を与えておられることがわかるようになると、苦難に対する姿勢が変わる。
また、イエスは、勝利者と殉教者の二つのイメージで語られる。つまり、イエスもまた十字架の犠牲によって多くの人々を天の祝福に勝ち取っている。それは、苦難にある信者も辿ることのできる道である。私たちにも忍ばねばならぬ時がある。しかしそれによって勝利を得るのだから。