黙示録は、黙示文学という文学ジャンルに分類されるものである。それは単純に言えば、たとえ話の一種で、映像的なイメージで思想を伝える特徴を持つ。今日の箇所も、イメージで捉えることが大切だ。巻物を封じている7つの封印を、イエス・キリストが解く度に不思議な出来事が起こる。第一の封印を解くと、白い馬が表れ、第二の封印では火のように赤い馬、第三の封印では黒い馬、第四の封印では青ざめた馬、そして第五の封印では、殉教者がこの世の不正に苛立ち、早く神様の正しい裁きを成し遂げるようにと訴えている光景、第六の封印を解くと、世界の終わりの日の悲惨で破壊的な光景、そして全てが断ち切られた後に、舞台は天に移り、天での聖徒たち光景が繰り広げられる一連の映像である。最初の四つは、地上のこと。そして後の二つは、地よりもむしろ天の事柄にかかわっている。 この一連の映像の個々に注目し、それらが何を意味しているかと考えるよりも、全体として、何を語っているのか、そしてそれは私たちにとってどういう意味があるのかと捉えるのが、黙示文学の読み方である。
だから、この第6章では、7つの封印された巻物が小羊によって一つ一つ解かれていくことによって、ヨハネは、これからの時代の推移をそこに見ていると理解するのがよい。「私は見た」で幻は始まる。ヨハネが見たことであって、聞いたことではない。そして私の目の前には、白い馬がいたというが、乗り手の方が重要である。第一の馬の乗り手は、「弓を持ち」「冠を与えられ」「勝利の上にさらに勝利を得ようとして出ていった」これは、おそらく馬にのって弓を強力な武器とし、ローマを脅かしたパルテヤをイメージさせるものなのだろう。ローマ軍は、AD62年、東の国境地帯でパルテヤ人のボロギス率いる軍勢と衝突して、敗北を帰し降伏する屈辱を味わっている。彼らは機動力のある馬と鋭い弓矢に屈したのである。しかも、侵略者は、ステファノス、つまり勝利者の冠を与えられている。受動態なので、その勝利は神が与えられたものと理解すべきところだろう。侵略者を神が許される、理解しにくい内容であるが、神が侵略者の飽くなき欲望を用いて、裁きを進められることは、北イスラエルを滅ぼしたアッシリヤ、南ユダを滅ぼしたバビロン、と旧約に記録された歴史に語られていることである。だがそれは、軍事的、帝国主義的侵略は、このアジアでも経験された。
次の「赤い」馬は、「地上から平和を奪い取る」「互いに殺し合う」、それは、戦乱をイメージしている。「赤」に使われたギリシア語は、赤い葡萄酒の赤を意味するコッキノスではない、ヴっロス、燃える火の色をイメージする赤である。「殺す」は、「虐殺する」「屠殺する」を意味する。確かに人類の歴史には、激しい戦争、内乱が繰り返されてきた。黒はユダヤでは飢饉の象徴。騎手は「秤」を手に持っている。騎手にはふさわしくない装具であるが、旧約聖書ではパンをはかって食べるのは極端な食糧難を意味した。つまり飢饉も人類史に繰り返されてきたことを思わされるところである。当時、小麦一升約一リットルが男性一日分の食料とされた。一デナリは、一日分の労賃、つまり一生懸命一日働いて自分が食べる分しか食料が得られない。大麦は、家畜用の飼料であるが、これだと三升買えるので、家族三人が食べられる。しかし一日分、ただ毎日食いつないでいくだけの人生。そんな時代は今なお繰り返されている。オリーブ油と葡萄酒の解釈は様々である。ぜいたく品と理解すれば、一方で飢饉に苦しんでいる者がいるのに、ぜいたく品がたくさんある。貧富の差の激しさがイメージされる。あるいは、それらを日常の必需品ととらえれば、飢饉は厳しくなるが、まだ命を奪うほどのものでもない、というイメージにもなる。「青ざめた」は、ギリシア語ではクロロース、病人の青白い顔色、血の気のない色を意味することばである。騎手は死であり、よみを従えていた、とある。彼がもたらすものは、死病、つまり流行伝染病によって村一つが全滅するイメージである。それはまだまだ過去のお話ではない。
こうして神の裁きが繰り広げられるが、それはまだ限定的である。地上の四分の一。恐ろしいことではあるが、最終的な滅びには至っていない。
さて、第五の封印では視点が天へと移り変わっている。そして非常に不思議な光景が繰り広げられる。そこでは、「自分たちが立てた証しのゆえに殺された者たちのたましい」つまり、殉教者たちが、苛立って、叫んでいる。「祭壇の下」は文字通りに理解すべきことではなく、殉教者のいのちが神にささげられて、神のもとに守られてある、ということだろう。その彼らが天から地の様子を見下ろし、なお一層の犠牲が重ねられてゆく様に、我慢しきれない思いでいる。早く、世の不正を正して欲しいと、神に、激しく抗議しているのだ(10節)。神の答えに注目したい。神はただ力ある暴君ではない。神は「聖なる、真実なる」方であると同時に、正義を貫かれるお方である。確かに殉教者たちが願っていたのも、無差別の復讐ではなく、正義が全っとうされることである。だから、神は、白い衣を与えて答えられた。白い衣は勝利の象徴である。殉教者は、屈辱的で敗北的な死を味わったかもしれないが、神は彼らを勝利者として扱われる。そして「もうしばらく休んでいなさい」という。つまり、今起こるべきことがすべて起こらなくては、次のことが起こらないからである。それは、イエスが十字架においてことごとく味わうべきことを味わうことがなければ、贖いが完成し、復活が起こらなかったことと同じである。だから、試練に弱り果ててはならない。むしろ、神が侵略や戦争、飢饉、疫病、迫害そして諸々の苦難を許されているこの時を、神のご計画を思いつつ、耐え忍び、心において休んでいなくてはならない。ちょうどよい時があるからだ。神のみこころの時が満ちるまでである。この忌まわしい横暴はいつまでも続くわけではないのだ。
そして第6の封印が解かれる。太陽が黒くなる。月が血のようになる。どういう光景なのかわからない。「青い実を落とすよう」星が天から落ちる、と言う。本来落ちるはずのないものが落ちる、つまりあり得ない状況が繰り広げられるイメージである。もはやこれは、世界のファイナル・シーンを描いていると理解すべきである。それは、大変な出来事であり、地の王たち、官僚、軍隊の長、金持ち、勇士、奴隷、誰もかれもが恐れをなし、怯え、逃げまどう姿が描かれる。神と子羊の御怒りの日。本来、柔和で優しい子羊が怒るのであるから、それは、ただならぬ事態である。だが、神を信じる者にとっては何も恐れるようなことではない。時が来れば、先の殉教者と同様に、天に迎えられるだけのことだから、いつものことをいつもどおりに、誠実に喜びをもって自分に与えられた務めを進めていくに尽きる。今日もまた喜びをもってなすべきことをなさせていただこう。