第五のラッパが吹き流された。その時の状況は、先の四つのラッパによって生じた出来事よりも多くの紙面が割かれている。一つの星が天から落ちた。それは無機質な物体ではなく、生き物である。鍵を手にしていて、底知れぬ穴を開くとある。古代のユダヤ人は、死人や悪霊の住む場所として、底知れぬ穴があると考えていた。だから、そこから出て来たいなごは、悪霊のようなものと考えるべきなのだろう。何とも不気味である。彼らは、さそりの持つような力を持っていて、人間を食い荒らすのである。しかも彼らが苦しめるのは、クリスチャンではなく、神を信じない人々である。ただ、それは、5ヶ月という限定的な苦しみである(5節)。生命を奪うまでには至らないが、逃れることのできない悲惨な苦痛である(6節)。
さて「そのいなごの形は、出陣の用意の整った馬に似ていた。頭に金の冠のようなものを着け、顔は人間の顔のようであった。」「女の髪のような毛があり」歯は獅子のようで、鉄の胸当てをつけている。このいなごは人々を苦しめるが、自分は傷つかないということだろう。11節の御使いは、サタンたちかもしれない。それを王にいただいて、というのは、サタンが権力を握ってということだ。彼らの名はヘブル語でアバドンつまり滅び、注釈に、破壊の意味とある。ギリシャ語でアボリュオン、つまり滅ぼす者。注釈に破壊者の意味とある。ともあれこのあたりはヨエル書(1:1-5)の知識があればかなり理解しやすい。つまり、そこでも食い荒らすいなごのイメージが描かれている。しかしそれは昆虫のいなごではなく、イスラエルを征服しようとするアッシリヤ帝国を象徴的に語っている。ユダヤ人は、侵略者や征服者を、このような非常に不気味なイメージで語る文学的な伝統を持っていたのである。だから黙示録のこの記述も、文字通り不気味な怪物が現れるわけではなく、歴史上に繰り返される侵略や、戦争のイメージを語っていることになる。ただ、ここで大切なのは、苦しめられるのはクリスチャンではないこと。つまり、クリスチャンを弾圧していた人が逆に弾圧される構図である。実際、歴史上に、そういうことはある。他国を蹂躙したドイツも日本も、敗戦の憂き目にあったようなものである。
ともあれ、七つのラッパに伴う災いの意味が、細かいことはわからなくても、あれやこれやと思い当たることがあって、ああ、これも人類史の衝撃的で破壊的なシーンの数々である、人類史は終息に向かっている、という歴史観をヨハネは示していることになる。だが、ヨハネはただ人類の歴史が終息に向かっていることを言いたいわけではない。封印に伴う災いの記事の後に、さらに詳しくラッパに伴う災いの記事を重ねて書いたのは、同じことを冗長に繰り返しているだけではない。
注目すべきは、ヨハネが出エジプトのイメージを借りて、第二の災いを詳しく書いた点である。つまり、旧約の知識前提のあるユダヤ人ならば、この記事から出エジプト記の十の災害を思い起こしたであろう。それは、イスラエルの叫びに応じて神が送られた災いである。それと同じ構図が、ヨハネの黙示録にもある。正しく生きることが決して報われない、愛することが報われない、無駄死にだと思われる状況が起こり、殉教者たちが我慢できなくなって叫んでいる。これに答えて、神は、7章で、約束の勝利の日、苦しみが報われる日の光景を見させてくださったのだが、8章からは、殉教者の叫びにこたえて七つの災いが送られることを予告されるのだ。そして、この裁きが出エジプトの繰り返しであると丁寧に解釈し、説明しているのである。「新しい出エジプト」のテーマがそこにある。ユダヤ人の間では、非常に馴染みがあり、大切にされてきた考え方である。神は、時を延ばすことなく、もうすぐ新しい出エジプトを開始してくださるという期待をここに抱くことができる。黙示録は、未来を語りながら、今の私たちに希望を与える。
ヨハネの黙示録10章