ヨブ記1章

ヨブ記1章 神を愛する人ヨブ

<要約>

おはようございます。今日からヨブ記に入ります。その最初から、人間がどのようなものであるかを深く考えさせられる書です。私たちは何も持たないものでありながら、何かを持っているかのように考えて生きているものです。原点に戻って、裸の自分で物事を考えてみれば、もっと人生も楽になるのかもしれません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ヨブ記について

ヨブ記の書き出しは、イーシュ・ハヤー(人がいた)で、これまでのイスラエルの歴史とは断絶した独立した物語であることを印象づけている。いつ書かれたのか、誰が書いたのかはわかっていない。描かれた、生活、宗教の状況からすれば、ヨブの時代背景は、創世記よりも古い時代のものと考えられている。しかし、一説に場面設定がそうなのであって、書かれた時代はもっと後、たとえばソロモン時代などであるともされる。

どの時代に書かれたにせよ、ヨブ記はよく構成された詩文である。散文の序論(1,2章)と結論(42:7-17)の間に、詩文体のダイアローグが挿入された形式となっていて、問題提起である序文と結論の間にはさまれた、長い詩文体の部分がより重要な役を果たし、この書の真の主題を考えさせてくれる。

2.ヨブの敬虔さ

さて、ヨブは敬虔な人であり、同時に神に祝された人であった。2、3節、7、3の割合で記される息子と娘、7、3と5、5の割合で記される家畜、合わせて完全数の10になっている。ヨブの完全な敬虔さに対して、神の祝福も完全であったことを言っているのであろう。彼の子どもたちは自立し、彼の人生はある意味で完成に近づいていた。そしてその人生は、一つの規則正しさをもって動いており、朝早く起きては父祖たちのごとく、神に全焼のいけにえをささげる。つまり、彼を造られた主を覚え、いけにえによる贖いによって主に近付き、主に伏し、身を献ぐ歩みを重ねるものであった。欠けのない祝福の中にあっても、彼は人が罪を犯す可能性を弁え、家長として家族のとりなしをささげているのである。それは、ヨブの完全さを裏付けるエピソードである。かつて、人類の祖アダムは、完全で満ち足りた主の園にあって、罪を犯したが、ヨブは、完全な祝福を味わいながらも、神を呪う愚かさに陥ることはなかった。

3.ヨブの敬虔さの証明

舞台は、地上の牧歌的な情景から、天上の神の宮殿へと変わっていく。6節、「ある日」へブル語原文では定冠詞がついている。一般に「ある日」は、人間にとっては思いがけない不定の日であるが、神にとっては、すでに計画の中に特定されていた日である。つまり、神の子が主の前に集まったその日、サタンもそこに現われた。サタンは「告発する者」、「敵対者」を意味する。彼はヨブの敬虔さに異議を申し立てたのである。彼によればヨブの敬虔は、神の守りの故である、と。神への従順を示しても、それに見合う守りと祝福もなければ、ヨブの敬虔さもそれまでであろう、と。人間に神を愛する純粋性はありえない、と言うかのようである。確かに、財産と所有物の一切が失われても、なおも私たちは、いつも通りに主を礼拝し、主に感謝しうるのか、神は、ヨブを信頼し、サタンの挑戦に応じた。そしてヨブに対する愛のゆえに、命に手を加えてはならないとサタンの攻撃に制限を加えられた。

ヨブは試された。略奪と天災により、ヨブは次々と彼に所属するものを失っていく。彼に残されたのは、妻、四人のしもべ、そして家であった。ヨブは、上着を引き裂き、頭をそった。それは、当時の哀悼の意を示す風習によるものである。そして「地にひれ伏して礼拝した」。ヨブは、神の意志に対する絶対的服従の気持ちを、身をもって示した。さらにそれは、言語化された「私は裸で母の胎から出てきた。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主はとられる。主の御名はほむべきかな」(21節)。神に無利子で与えられ、それをもって豊かな人生を歩んだ、それはそれで感謝しなくてはならない。そして最後は、全てをお返しして、天に戻っていくのである。不幸の連続の中で、彼は神のものであるものを自分のものであるかのように愚痴をこぼすことはなかった。まして神に背を向けることも、神あっての自分の姿勢を崩すことはなかった。つまり神を純粋に愛し、神に栄光を帰すヨブの真の信仰の姿が証されている。神を愛することは、神に対する服従によって表される。告白以上に、身に起こることを神のみこころとして素直に受け入れ、神導きを待ち望むことにおいて表されるのである。

 

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