ヨブ記10章

10章 ヨブの訴え

<要約>

おはようございます。神をどのように受け止め理解していくか、これが信仰をする者にとって決定的なことと言わなくてはなりません。実に、神を人間的なものと見てしまえばそれまでです。神を神として、その高さ、広さ、深さを私たちは知らなくてはならないのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神よ、あなたは人間と同じようなものなのか

先に9章で見たように、ヨブには仲裁者がいなかった。だからヨブは神に直接訴えている。ここでは、三つのことが中心に訴えられている。

まず、ヨブは、この後の自分になんの希望もないのだから、神を訴えることで、ますます最悪の事態になったとしても、つまり命を失うことがあったとしてもかまわないし、実際生きるつもりもない、だから、ありのままに不平をぶちまけ、苦しみを告げよう、と決心している。そして言う。自分が「神の御手のわざ」(3節)であるとする。それは、8-12節に詳しく再び述べられているが、言いたいことは、自分は神にあって奇跡的に造られた者であるのに、どうして、神はこれを軽んじるのか、ということだ。それとも神は人間と同じような生き物なのだろうか(4、5節)。人間というのは、判断を過ちやすい者であるし、気まぐれなものだ。だから、彫刻家が魂を込めて刻み作り上げた苦心の作を、叩き壊すのだろうか(8節)、と問う。実際、神に私のような者に目を光らせるどんな意味があるのか。神の全能性が犯されるわけでもない。神はいつだって好きなことを好きなようにできるのだ。そのような神に誰が抗しえるのか。

ヨブは、人間が神に造られた者であることを、神に思い起こさせようとしている。人は母体の中で受精し、ミルクのような状態から、チーズのように固まり、皮、肉、骨、筋がつき、形をなしていく。この過程一つ一つに神の奇跡があり、神の霊の守りと業がある。神は私に命を注がれた。この全てが侵されることなく、一人の人間として誕生するように導かれた、これはあなたの素晴らしい業なのだ。

2.人間的な神よ、私にかまってくれるな

「しかし」(13節)、あなたは隠しておられた。それを私は今知った。つまり、神は私たちを大事に造られたようでありながら、私の内に罪を認め、陰湿な看守のように、ずっと見張ってこられたことを(14節)。どんな小さな罪にも目を光らせ、見過ごされない。それは実に悲しいことであり、自分で自分を立たせようとしても、できない(15節)。というのも、そうしようものなら、あなたは、容赦なく罪人にしたてよう、と、狙いを定めてくるだけで、その恐るべき業を振るわれるでしょう(16節)。罪を立証するために新しい証人すら立て、私は冤罪を逃れることはできず、ますます不当に苦しめられるのです(17節)。もはや、理不尽な神の前にひたすら耐えるしかない。

ヨブの気持ちを読むにつれ、確かに神が神の力をもって、人間を造られたのはよいとしても、その人間に対し杓子定規に因果応報を適用される、人間的な神のお遊びには付き合いきれない思いもしてくる。神に救いを求めながら、神が人間と同じようなものならば、そのような神を信じる宗教に救いはない、と言わざるを得ない。

そこで最後にヨブは、人間の人生がそのようなものであれば、そんなものは初めからない方がよい、と訴えている(19節)。死は容赦なく近づいてくる、しかし、一度、罪に定められた人間に救いはない。「わずかでも明るくふるまいたい」は、新共同訳では「立ち直らせてください」である。再び帰らぬところに行く前に。すべてが無秩序に、やみと化し飲み込まれてしまう時が来る前に、自分の人生に意味を見出したいということだろう。

確かに、私たちにはそのように切実に祈らせられる時がある。人間の命は神秘に満ちている。それは神の守り無くして成立しえないものである。しかしそこまで神が丁寧に人間の創造に関わりながら、神が人間のいのちを限りあるものとし、罪を監視し、容赦せずに裁きをくだされる、のはどういうわけだろうか。私たちは、まるで人間のような神のお遊び相手とされているのだろうか。

そうではない。それは、そこまでネガティブに落ち込んでいたヨブの思うところであって、実際はそうではないことは後で語られる。自分の魂の状況を客観的に理解したいところではないか。すべてが否定的に思えて来る時にこそ、神に深く祈る時である。神に心から語る時である。

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