ヨブ記12章

12章 神のみこころはいかに

<要約>

おはようございます。人生まだまだ、迷うこともクリスチャンの人生の一景であると言わなくてはならないでしょう。こんなことばは受け入れられないという方もおられるかもしれませんが、聖書通読道場において、しっかり鍛え上げたい、精神です。毎月一度持たれる聖書通読道場にもおいでください。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.私だってわかっている

ツォファルに対するヨブの答えは長い。それは、一通り、友人たちが語ったことに対するまとめとしての応答となっているためなのだろう。「あなたがたは地の民」いわゆる大衆であって、特別な知恵ではない(2節)。私にも神の主権と人間の人生のなんであるかを論じる良識はあり、あなたがたに劣ってはいない(3節)。「これくらいのことを知らない者がいるだろうか」ヨブは、自分が上から目線で見られて、友人に諭される形になっていることに苛立っている。ヨブの自尊心が傷つけられている(4節)。

ヨブは言う。安泰な人生を送る者は、上から目線で、不幸にはそれなりの理由があると侮蔑的である(5節)。そのような乱暴者の住まいを禍が撃つことはない。本来彼らは神を怒らせる者であるのに、どういうわけか神はお見過ごしになっている。いや、神は彼らのその特権的な地位と厚かましい横暴をお許しになっているのだ(6節)。

これは、人間社会だけのお話ではない。自然界の出来事それ自体がそうではないか(7節)。空の鳥を見よ、海の魚を見よ。彼らは自由に空を飛び、大海を回遊している。神の創造の御業の美しさは歴然としているが、そこには同時に弱肉強食の矛盾があるではないか。人間が矢を射てこれを捕まえ、捕食する。魚も釣り針で引きずり上げられるだろう。どの鳥、魚がよいものであり、悪いものであるかなど関係もない(7,8節)、まさにそこには、不条理な世界が広がっている。耐えがたいのはその矛盾である。信仰を持ち、神と共に生きていても、世の中には、神がいないかのような矛盾がある。

だが、強い者は弱い者を思いのままにするこの現実は、神が定めたものである(9節)。いや、全てのいのちは神の手中にあり、全能の神がそれを意のままにされるのである(10節)。

あなたがたは、あれこれ言うが、私だってわかっているのだ。食物の味がよいかまずいか、簡単にわかるように、あなたがたのことばの良し悪しもわかっている(11節)。そして年寄りの言うことが必ずしも知恵ある言葉とは限らない。そこに真理があるわけでもない。あなたがたが言葉を尽くそうと、何一つ、物事が見えてこない。(12節)。もはやあなた方も言うとおり、真の知恵は上から、神から与えられる他ないのだ(13節)。

2.神よあなたは何をされようとするのか。

神は創造者として素晴らしい働きをするだけではない、見よ、神は破壊者としても働く。神がそのように働く時に、もはや人間には逆らいようがない(14節)。それは自然界も同じで、神が天の雨戸を閉じられるなら、地は乾き切り、水門を開くならば逆に一切を押し流してしまう。干ばつも大雨も、私たちにはどうすることもできない(15節)。いやそれ以上に、神は人間の社会をも混乱させるではないか。神がよしとすれば、奸計を抱く人物が現れ、人々もそれに容易に騙される。そのようにして社会全体が迷い出、後の祭りになることは歴史も証明している(16節)。神の決定には誰も逆らえない。だから、国が破れて王の参謀ともあろう人が、その職務をはく奪され、奴隷として連れ去られるのだし、その国の裁判官もそれまでである(17節)。祭司という特権階級にある者も、巨万の富に胡坐をかいて安泰な生活を送る富裕な市民も同じように奴隷とされる(19節)。そんな事態にあっては、国の核たる長老も言葉を失い、君主たちも恥を見るのみである。だが神のなさることはそのようなことだ(21節)。それはまるで地滑りに似ていて、表層の地層が滑落して、その下の暗黒の中に潜んでいたものが露にされるようなものだ(22節)。それにしても何のためにそうするのか。なぜ神は、国々を栄えさせ、これをまた滅ぼすのか。国々が勢いづいてその領土を拡大するのを許しながら、またこれを取り去ることをするのか(23節)。神は王の分別を取り去って、荒れ地に迷い込ませ(24節)、そして闇の中を手探りで進ませて破滅させるのだ(24節)。この矛盾は一体なんなのか。

結局、ヨブの悩みは、知っているか知らないかにあるのではない。知っているがなぜ、そのようなことが起こっているのか、である。なぜ神の御手が、このような矛盾の真っただ中に自分が堕ちていくのを許すのか、である。あらゆる事柄が神から発しているとすれば、なぜ今の自分の不幸を、神は許しておられるのか、神のみこころはいかに、ということだろう。

14節以降は、詩編107篇および、イザヤ44:24-28との関連が語られるところである。しかしヨブの応答は、詩編やイザヤ書とは違って、真っ直ぐな神への賛美となってはいない。それは屈折したヨブの心情を吐露している。不可解な神の力に服従させられる、そんな時が私たちの人生にはある。だが、迷うこともクリスチャンの人生の一景なのである。

 

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