15章 二回目の弁論の始まり
<要約>
おはようございます。ヨブと三人の友人たちの二回目の議論が始まります。実にヨブがかわいそうなぐらい、ヨブは誤解されたままで議論が進んでいきます。しかし、ヨブと切り離してエリファズのことばを読み味わうなら、それ自体に間違いはなく、むしろ、そこに真理があることを教えられます。古代テマン人の知恵に学びたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ヨブよ、あなたは、自分を正当化するのか(1-10節)
15章からエリファズの二回目の弁論、いわゆるヨブと友人たちの議論の二回目のサイクルが始まる。エリファズのことばは、一回目のものよりもさらに厳しくなる。一回目はヨブに対して同情的であったが、二回目は、敵対的で、その口調は怒りと苛立ちに満ちている。まずエリファズは、ヨブの発言が、ヨブに知恵のないことを明らかにしている、という(2節)。それは、全てを焼け焦がすシッコロ(東風)のような危険なもので、全く益にならず、脈絡もない(3節)。あなたは敬虔な生活も、遜って祈ることも無意味だ、と言っているようだ(4節)。あなたはまるで自己正当化しようと、言葉巧みに語ってくるだけだ。あなたが語れば語るほど、疑わしい(5節)。悪意を持って自分の罪をごまかそうとするからそんな言い方をするのだろう。あなた自身があなたを黒だと語っているのだ(6節)。あなたがこうも自信をもって語るのを聞くと、あなたは誰よりも先に生まれ(7節)、神と肩を並べて、神の知恵を共有しているかのようだ。そんなわけがない(8節)。あなたの知恵が私たちの知恵を凌ぐわけでもない(9節)。むしろ、私たちの人生経験は、あなたのそれよりもはるかに超えており、それをもとに語っているのだ(10節)。
ヨブ記を読んでいて気づかされることは、これが、族長時代の物語であることを感じさせる場面構成でありながら、実際には、ソロモンやウジヤの時代に書かれたのではないか、と思わされることである。つまりそこには詩編や箴言に出てくる文言がパロディ的に反映されていて興味深い。たとえば、7節「あなたは最初に生まれた人か。あなたは丘より先に生み出されたのか」は、知恵について語る箴言8:25では、「山がたてられる前に、丘より先にわたしはすでに生まれていた」とある。ヨブ記を書いた著者は、すでにこの表現に触れていたのではないか。とすれば、ヨブに対する「あなたは最初に生まれた人か」というのは「あなたは神によって造られたアダムを超えた、神的な知恵の所有者か」と問い正していることになる。アダムは「造られた」のであって「生まれた」のではないからだ。また8節「神の会議」は、箴言8:30,31に重ね合わせられ、箴言の表現との関連性は興味深いテーマである。ともあれ、エリファズは、ヨブが全く神に背を向け、自らを正当化し、その罪を隠す「悪賢い人」であるとし、高慢に陥っていると決めつけている。残念だが、このような局面に人は立たされることがあるものだ。単純に弁明していることが、自己正当化している、とされ、黒の烙印を押されてしまうようなことが、人間社会にはあるものだ。
2.なんてざまなんだ(11-16節)
エリファズは、言う。私たちを通して語る神の慰めのことばが不十分なのか。私たちは優しく語っている(11節)。ヨブよ、あなたはどうかしている(12節)。神に対して物を言うときは、もっと謹んで、言葉を選んで語るものだろう(13節)。人間を母とする、罪人なのだから、それ自体で正しいということはありえないのだ(15節)。聖なる神の御使いですら、そのぐらい弁えている。聖なるお方は神お一人なのだ(15節)。全く、混迷した社会の中で生きる人間など、なおさら清くあるわけがない。
3.古くからの知恵は教える(17-24節)
エリファズは続ける。まあよく聞きなさい、私が観察したことを(17節)。それは私個人の観察では終わらない、先祖たちからの教訓というべきものだ(18節)。それは古いテマン人の知恵(エレミヤ49:7)であり、彼らが平穏に自分たちだけで暮らしていた時のものだ(19節)。
それによれば、神と人の法を犯すものは、いつかやがてくる裁きに怯えて過ごすものだ(20節)。悪人はありもしない幻聴に悩まされ(21節)、不幸から逃れることができない(22節)。食べるものにも事を欠き、破滅が待っていることを知っている(23節)。苦難と苦悩とが彼をおびえさせる。それは、さしずめ、勝ち目のない敵軍に包囲されてしまって、追い詰められたようなものである(24節)。
4.悪人の富はもろく崩れやすい、見かけに惑わされるな(25-35節)
あなたがこうなったのは、あなたが神に対して神に手向かい、あのような口の利き方をするからだろう(25節)。あなたの語り方は全く傲慢そのものである(26節)。そのように神に対して厚かましい者は、どんなに贅沢三昧、富裕な生活をしていても(27節)、やがてはそれを全て失ってしまうのだ(28節)。彼らはその利益の全てを失ってしまう。そして彼の報いは、神の呪いの闇である(29節)。若枝は、夏の暑さの中で伸びるが、夏の終わりに吹く東風(シッコロ)によって、枯らされてしまう、つまり、その子孫も絶え果ててしまう。神の御怒りの熱い息吹の故だ(30節)。悪人の富はもろく崩れやすい、見かけに惑わされないことが人生の知恵だ(31節)。
人を出しにして神を辱める人は、結局、着床の悪いぶどうのようなものだ(32節)。ただ、ぶどうの未熟の実は、自然に落ちることはない、農夫がそれを切り落とす。つまり、つまり、神が悪人の運命に介入し、裁きを執行される(33節)。神を敬わない者は、永続的な成果を手に入れることはない。賄賂で掴んだ富は、それまでのこと。自ら欺かれるのである(35節)。
確かに、神は悪を裁くお方である。エリファズのことばは、ヨブには手厳しいし、違うだろう、とも言いたいところである。だが、文脈から切り離せば、エリファズの言葉自体に、慰めがある。それは真理に満ちたことばである。悪人の運命はもろく崩れやすく、その繁栄も見かけに過ぎないからだ。悪人のなすことに一々心を腐らせる必要はない。黙って、神の時を待ち望むことである。神は正しいお方である。