16章 仲介者
<要約>
おはようございます。神と人との間を取りなす、仲介者の思想が明確に出てくるところです。新約のキリストの恵みを理解するには、ヨブモノローグを通しながら、私たちがいかに神の前に、一人で立つことができない、罪深い者、神に攻めを受けるべき者であるかを理解することでしょう。幸いなるかな、キリストの十字架の赦しを受けている人々は、です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.余計な言葉はいらない(1-6節)
エリファズの二度目のことばにヨブが答えている。「私は何度も聞いた」そんな古いテマン人の知恵など持ち出して、聞いてられない、ということだろう。ヨブは耳を閉ざしている。もはや友人の語ることは、饒舌な中身のない慰め、人を苛立たせ、不快にさせるだけだ、というわけだ(1節)。そんな言葉をもって、私に寄り添おうとするのは、いったいどういうわけか、という(2節)。そして立場を逆転させれば、私はもっと上手くやっただろう、とすら言って見せる(3節)。もっともらしく、「頭を振って」同情するそぶりを見せ、言葉巧みに(4節)、この口で、慰め、励まし、力んで見せただろう(5節)。
難しいところである。慰めようとして現れたヨブの友の行為が、結局はその意図するとおりにはならない。むしろますますヨブに苦痛を与え、孤独にさせてしまう。ヨブは言う。「語ってもだめだし、忍んでもだめだ(6節)」自分の苦しみは去らない、と。確かに、誰か自分の気持ちを本当に分かってくれる人がいたらどんなに楽になるだろうかと思うだろうが、そのような誰かはなかなか見つからないものであるし、語れば語るほど、孤独感を増すのが現実であったりする。では逆に、忍ぶことも耐えられない。にっちもさっちもいかない現実があるのだ。
2.神よ、なんてことをしてくれたのだ(7-14節)
7節からは、ヨブのモノローグである。ヨブは神が自分の敵となっている、そして友も、神の手先となって自分を攻めたてる、とみている。神よ、あなたは私をこのような不幸に落とし込んで、私の仲間をも驚きと戸惑いの中に巻き込んでいる(7節)。あなたは、私を、不幸の証人、あるいはサンプルとして、神がどんな仕打ちをするのか、人々に見せしめのようにさらしているのである。だから人々は、私を見ながら、私がどんな悪事を働いたのかといぶかしげに私を見て、いや確信して私を責め立てることを許しているのだ(8節)。
ああ、神よあなたは、私に猛獣のように襲い掛かり(9節)、あなたの手先どもも、私を容赦なく責め立てる(10節)。なんとも、無慈悲な者どもの囲みの中に放り投げ(11節)、それまでは平穏に過ごしていた私を、突然、猛獣のように首筋に噛み付き、骨が粉々になるまで私を振り回した。神は私を狙い撃ちにされたのだ(12節)。手先どもの矢は、私の急所に集中し、次々と射貫き、私はもはや命尽きようとしている(13節)。いや、次々と、城壁の壁を崩していく勇士のように襲い掛かり、もうお終いである(14節)。
ヨブは、神とその手先によって落とし込まれた自らの無力さ、痛みを切々と語る。確かに、人間にとって、神が敵対したら、何の希望があろうか。神と人間だけの世界では、そこに救いはないのである。だから、こうしたヨブの深い掘り下げが、やがて神に「仲裁者」を求める前奏となっていくのである。
3.とりなし手がとりなしてくださるように(15-22節)
15節「荒布」はヤギの毛で織った黒い荒布で、悲しみを表す時に身に着けるものであった。それは通常、一時の用に用いるものである。しかしヨブは、それを自分の体に縫い付けたに等しい状況にあった。傷ついた野牛が角を塵に突き立てるごとく、もはや絶命の状況にあった(15節)。泣き叫んだために、目も赤くはれ、力をうしなっている(16節)。自分にやましいことなどない。かつてイザヤは、「もう、むなしいささげ物を携えて来るな。…どんなに祈りを多くしても聞くことはない」(イザヤ1:13-17)と語ったが、私にはそのようなことは当てはまらない(17節)。だから、私が死んだときには、大地が私の血を覆い隠さないように。アベルの声がして、アベルの血が、その大地から神に向かって叫び続けたように(創世記4:10)、私に加えられた実にこの理不尽な仕打ちに対して、私の血が叫び続けるように(18節)。そうだ、誰かが、天において証言してくれるはずだ19節、「私の証人」という第三者が登場する。21節、「その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために」という。ヨブは、神と自分を取りなすものを求めているが、実はこれは重要なテーマである。新約において初めて具体的に、救い主イエスという形で取り上げられていくのであるが、ヨブ記のみならず、旧約において繰り返し取り上げられているものである。そして、私たちに必要なのは、神のあわれみよりも、神のあわれみを勝ち取る仲裁者なのである。
身の回りに起こることは、あれもこれも神のなさることであり、不幸も、不理解も、すべては神のみ許しの中で起こっている。となれば、人間社会には理不尽な苦しみが多いのだが、そのような苦しみを敢えて送られる神の深いみこころを思い、弱り果ててはならない。たとえ、私たちの思いが直接神に伝えられている感触がしなくても、確かなる仲介者がおられるのであれば、仲介者にそれを委ねることができる。自分に必要な弁護してくださる仲介者が天において働いておられると信頼すべきである。ヨブには明確ではなかったこのお方のイメージは、今や私たちにはキリストとして明らかにされている。パウロは、「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26)と語ったが、天の仲介者の助けに期待する歩みをさせていただこう。
17章 保証者イエス
私たちには救い主が必要である。神の前に立って、私たちの人生を保証する方が必要なのである。「私の霊は乱れ」(1節)は、エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうして、私を見捨てられるのですか)と叫ばれたイエスを思い浮かばせる。「あざける者らが、私と共におり」(2節)は、そのメシヤ詩篇22篇の7節にあることば「私を見る者はみな、私をあざけります」に重ねられる。確かにイエスは、あざけられ、辱められ、つばきをかけられる者となった(6節)。このようにして、17章をメシヤ詩篇の22篇と重ねてみると、これまで難解と注釈され、古い格言の引用であるとされてきた5節も、どうやら、ユダの裏切りについて触れているように思えて来るところである。英訳(Today’s English Version)では「古いことわざに、誰かお金のために友を裏切るなら、その子孫は苦しむ」となっている。つまり、17章前半は、イエスの苦難を預言的に語っている、と考えてもよいのではないか。ヨブは、意図せずして、神のそばに置かれる私を保証する者(3節)、つまりイエスの苦難について語っているのである。
またこの苦難の大切なポイントは、それが神の支配の中で起こっていることである。しかも、人々がその苦難を理解しないのは、「あなたが彼らの心を閉じて、悟ることがないようにされた」(4節)、つまり、神がそう仕向けたからである。しかし、なぜ神はそのようなことを許されるのか。本当に正しいことを見抜く人がいたら、神がそうされることに対して、驚くのではないか(8節)。確かにそうである。苦難のしもべのイエスの十字架は、私たちにとって感謝であると同時に、受け止め難い驚きでもあるのだ。
後半は、よみの思想が展開されている。すでに、ヨブは、よみについて何度か触れてきている。そこは、ヨブが自分の身を横たえ眠って休むはずの場所であった(3:13-19)。よみに下るならば、二度と戻ってくることはないにしても(7:9)、そこは神の怒りから匿われる場所(14:13)と考えられた。
しかしここで、重要な疑問が提示される。そこを自分の「父、母、姉妹」と安らぎの家庭、つまり自分の落ち着き先、終着と考えるならば、一体人間の人生に何の望みがあるだろうか。ヨブは、神の責めから逃れてよみに隠れたい、よみに身を安らがせて、もう終わりにしたいと考えた。しかし、仮にそれができたとしても、ヨブの疑問は解けないし、ヨブに救いはないのである。
大切なのは、使徒信条にあるように、イエスがよみにまで下ったということだろう。よみに下るというのは、ヨブがここで言うように、神と断絶する場所であるから、神の怒りから匿われる時を得たとしても、そこに望みはないのである。まさに、神から離れた究極の終着点に望みはない。しかし、イエスがそのよみに、私たちの身代わりとして下ってくださったのだから、私たちには、もはや行く必要のない場所であるとするならば、ヨブがよみについて結論した事柄も、めぐみとして理解される。もはや、私たちがイエスにあってのぞみなき終着点にたどり着くことはないからである。そしてイエスが、天の神のそばにあって、私たちの保証となってくださるからである。仲介者イエスの救いがある。