ヨブ記17章

17章 保証者イエス

<要約>

おはようございます。ヨブの切々と語られる苦しみを思いめぐらすときに、それがイエスの苦しみに重ねられるところがあり、イエスが、完全な仲介者となられたことの意味を深く教えられるところでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.彼らの仲介も保証も不要だ(1-10節)

もう年貢の納め時なのだろう、もはや、これまでだ。後は墓穴に下るだけだ(1節)。そのような状況にあると言うのに、なおも嘲られ、敵意に囲まれる中で葬られよう、とは(2節)。しかし神よ、あなたがあわれみ深い方であるというのなら、あなたの側に、誰かを保証人として置いてくれたらと思う(3節)。というのも、私のいわれのないこの不幸について、人間があなたがと私の間の仲介者となれるとは思えないからだ。彼らが、あなたの側で、その名誉ある地位に高く上げられるとは、とうてい思えない(4節)。「自分の安全や分け前のために友を売り渡すような者を、神は、お赦しにならない。神は彼らの子どもたちを必ずや撃たれるであろう(5節)」。しかし今回あなたは、私を彼らの笑いものにした。そして、ヨブ、それは誰だ、僕らに彼らの罪は関係のないことだ、僕らは聖い、と唾を吐いてそ知らぬふりまでさせている(6節)。なんてことだ、私は苦しみと悲しみで泣きはらし、目もかすんで、まるで消え入りそうだ(7節)。事の真実がわかる人は、この状況にただ驚くばかりだろう、そして、神を真に敬うわけではない、これらの者に憤りを感じることだろう(8節)。あなたがたは「正しい人の道は守られ、敬虔な者は、勢いを増す」と言うが(9節)、あなた方の言うことは、何の役にも立たない。私のこの状況を説明し、私に納得させる知恵など無きに等しいのだ(10節)。

ヨブの独白に耳を傾けていくと、確かに人間には特別な位置づけの救い主が必要であると納得する思いに立たせられる。神の前に立ち、神の側と人の側に立つ、同じ穴のムジナではない、私たちの人生を保証する方が必要なのである。

それにしても「私の霊は乱れ」(1節)は、エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうして、私を見捨てられるのですか)と叫ばれたイエスを思い浮かばせる。「あざける者らが、私と共におり」(2節)は、そのメシヤ詩篇22篇の7節にあることば「私を見る者はみな、私をあざけります」に重ねられる。確かにイエスは、あざけられ、辱められ、つばきをかけられる者となった(6節)。このようにして、17章をメシヤ詩篇の22篇と重ねてみると、これまで難解と注釈され、古い格言の引用であるとされてきた5節も、どうやら、ユダの裏切りを連想させるところである。英訳(Today’s English Version)では「古いことわざに、誰かお金のために友を裏切るなら、その子孫は苦しむ」となっている。つまり、17章前半は、イエスの苦難を預言的に語っているようでもある。ヨブは、意図せずして、神のそばに置かれる私を保証する者(3節)イエスが、人間が通るどん底の苦難を通り、保証してくれる人を望む状況に置かれた上で、救い主として立たれたことを語っているのである。またこの苦難の大切なポイントは、それが神の支配の中で起こっていることである。しかも、人々がその苦難を理解しないのは、神がその人たちの心を閉じて、悟ることがないようにされた(4節)からである、つまり、神がそう仕向けたからである。しかし、なぜ神はそのようなことを許されるのか。本当に正しいことを見抜く人がいたら、神がそうされることに対して、驚くのではないか(8節)。確かにそうである。苦難のしもべのイエスの十字架は、私たちにとって感謝であると同時に、受け止め難い驚きでもあるのだ。

2.彼らの慰めなど何の意味もない(11-16節)

もう、私の人生は終わったも同然だ。なんの望みもない(11節)。空しい慰めに耳を傾けるだけだ(12節)。けれども、もう棺桶の蓋をかぶせようか、としているようなこの期に及んで、どんな大逆転劇があるというのか(13,14節)。もう、死の扉は開かれ、半分入りかけているのに。希望や望みが、そこに一緒についてくる、というのか(15節、16節)。

後半は、よみの思想が展開されている。すでに、ヨブは、よみについて何度か触れてきている。そこは、ヨブが自分の身を横たえて、眠って休むはずの場所であった(3:13-19)。よみに下るならば、二度と戻ってくることはないにしても(7:9)、そこは神の怒りから匿われる場所(14:13)と考えられた。

しかしここで、重要な疑問が提示される。そこを自分の「父、母、姉妹」と安らぎの家庭、つまり自分の落ち着き先、終着と考えるならば、一体人間の人生に何の望みがあるだろうか。ヨブは、神の責めから逃れてよみに隠れたい、よみに身を安らがせて、もう終わりにしたいと考えた。しかし、仮にそれができたとしても、そこは、永遠の孤独の場である。一体、そこに何の希望があるだろう。

大切なのは、使徒信条にあるように、イエスがよみにまで下った、と言うことを考えることなのかもしれない。よみに下るというのは、ヨブがここで言うように、神と断絶する場所であるから、神の怒りから匿われる時を得たとしても、そこに望みはないのである。まさに、神から離れた究極の終着点に望みはない。しかし、イエスがそのよみに、私たちの身代わりとして下ってくださった、というのが初代のキリスト者の信仰であった。キリストが、代わりにそこに来てくださって、その役割を引き受けてくださったので、私たちをそこにいなくてもよいのである(14:14)。私たちには、もはや行く必要のない場所であるとするならば、ヨブがよみについて結論した事柄も、めぐみとして理解される。もはや、私たちがイエスにあってのぞみなき終着点にたどり着くことはないからである。そしてイエスが、天の神のそばにあって、私たちの保証となってくださるからである。仲介者イエスの救いの深さを色々と教えられるところではないだろうか。

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