18章 わかりえないことをわかりえないままに
<要約>
おはようございます。ビルダデの議論がいよいよ激しくなっていきます。ヨブも頑なになりつつありますが、それはビルダデも同じです。人が人の友でありうるためには、永遠の神の深さに与り、神の余裕、ゆとり、恵みに生きていることが肝要なのでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ヨブよ、話が通じないよ(2-4節)
人間には、どうしても「分かり合えない不幸」がある。言葉を尽くせど理解してもらえない。理解してもらおうと語れば語るほどに、「言葉の罠」に嵌り、感情的に拗れていくだけ、ということがある。ビルダデは個人を攻撃するような言い方にならないように、「あなたがたは」と複数形で語っている。この代名詞は、ヨブと友人たちを指しているわけはないから、ヨブを代表とする、ヨブ的な人間たち全般を指してそのように言っている。「まったくヨブのような人々は~」という言い方で、彼の苛立ちがそこに現れている。しかし、4節、「あなた」とあるように、ビルダデは、率直に「ヨブのような人々は」、から「ヨブよ、あなたの問題は」と切り込んでいる。ビルダデのことばは手厳しい。私たちはあなたを慰めようとして来たのに、なぜ不快な言葉を浴びせられなくてはならないのか、というわけである。一般的な原理原則、いわゆる誰もが正しいと思うことを語っているのに、なぜ、あなたにはそれが受け入れられないのか。あなたのために、地の法則が変わるとでもいうのか。それは、天地がひっくり返るようなことではないか。
なぜこのようなことが起こるのだろうか、不思議なことに、ヨブは、神との関係で物事を語ろうとする。しかし、ビルダデは、一般的な原理原則から語ろうとしている。ここが、ズレのポイントなのかもしれない。
2.ヨブ、悪者は成功しない、と言っているんだ
5節以降は、これまでも繰り返されてきた、応報思想に基づいて、悪者の運命について語る。ビルダデは、ヨブに自分の理屈を理解させようと繰り返す。悪者のともしびは消える(5-6節)、と。箴言にも用いられている比喩で、未来がないことを言っている。邪悪な者は、急に罠に捕らえられる(7-10節)という。邪悪な者は追う者もいないのに逃げ去ろうとする。しかしその道には、彼を捕らえる「網」(8節)「罠」「仕掛け網」(9節)「縄」(10節)「罠」(10節)が待ち構えている。確かに、エステル記のハマンの例に学んだように、悪者はどんなに栄えていても、自分のはかりごとの中で滅びていく。
3.悲惨な死が待っているのじゃないのか(11-15節)
また、悪しき者は、常に恐れにさらされ、逃げ惑うような人生を歩むことになる(11節)。そして、自分の手に負えない神の災いを受ける(12節)。それは、彼を蝕む病気、であり死である(13節)。14節、死の恐怖を語る比ゆ的表現だろう。いずれにせよ、彼は現実としても、地上の天幕から消え失せ、そこには別の住人が住み、荒廃と破滅へと追いやられるのである。それは、ソドムとゴモラの硫黄の裁きを受けた時のように、悪は、究極的な滅びとなっていく。
4.子孫もまた失われる(16-21節)
さらに、ビルダデはたたみかけるように語る。そのように、神に呪われた人は、根も枝も全くだめになっていく、枯れていく木のようなものだ(16節)。もはや彼のことを記憶する者もいないだろう(17節)。地上の光の中から、地下の闇へと彼は追い出され(18節)、その子孫も失われ、彼の住処は荒廃していく(19節)。ただ残るとすれば、悪しき者の運命に対する驚愕!(20節)神を知らない者の運命の実に悲惨なこと!というものであろう。
確かに、ビルダデが言うことばは一つの真理であるのは間違いない。アサフは詩編の中で、悪者が死ぬまで苦しみを知らず、病にも侵されないように見えていても、一瞬にして、神の裁きに服するようになる、と語っている(73篇)。
しかし、ヨブの苦しみは違う理由のものであったことは、既に1,2章で明らかである。それはサタンの業であり、神が許された試練であった。私たちは、外野席から、この議論の成り行きを見守るのみであるが、当事者には何も知らされずに、さらなる衝突的な議論が進んでいく。最近思うことは、合理的に物事を判断せず、わかり得ない深さを受け止める力をもって、物事を、10年、20年かけてみていく、余裕があれば、ということである。残念なことに、人間はいつも近視眼的である。神の永遠の深さに触れて、永遠の神を友とし、交わるところに、私たちの深さも養われていくのであろう。主よ、私が主の身近にあり、主とよき時を過ごすことをお許しになるように。