ヨブ記19章

19章 贖い主が立てられる

<要約>

おはようございます。贖い主の存在の根拠、そして贖い主に対する信頼と回復が明らかに語られていくところです。ヨブ記は、苦しめる者の慰めという以上に、人生には、贖い主、仲裁者の存在があることを明確にしています。仲裁者への信頼を増し加え、主の恵みの中を歩ませていただきたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.あなたたちが責めなくても、もう神に責められている(1-5節)

悪人の末路は滅びである、と一般論を押し付けようとするビルダデに、ヨブは苛立って答える。「いつまで」私の心を苦しめるのか(2節)、とまず、ビルダデのことばを(18:2)を借りてやり返している。「自分でも気づかずに、どんな悪さをしたのか、とっくり考えることだ」ヨブの友人たちが言うことは、そういうことだろう。こんなことばにだらだら晒されて、頭がおかしくならない方がどうかしている。だが、そのようないじめはありうることなのだ。慰めるふりをして近づいてきて、実際には、普段の妬ましさ、羨みをぶつけ、そ知らぬふりをしていじめるのである。そして自分のそのような姿に恥じることもない(3節)。人間ほど恐ろしいものはない、と思うような時はこのような時だろう。そこでだ、仮に、私が、あなたがたが言う通り、罪を犯していたとしても、あなたがたが罪を認めさせようとする努力は何になるのか(4節)。限にあなた方がやっていることは、既に神に打ち叩かれ、息も絶え絶えになり、神に見捨てられて頽れている者を捕まえて、さらに腹いせの攻撃を加えようとしているチンピラと同じことだ(5節)。

2.私を神と一緒に責めないでくれ(7-21節)

明かなことは、神が「私を迷わせ、神の網で私を取り囲まれた」ことである(6節)。神が私から「はぎ取り」(9節)、「取り去り」(9節)、「打倒し」(10節)、「根こそぎにした」(10節)。神が「遠ざけ」「離れさせ」(13節)、見放させ(14節)たのだ。あなたと同じ空気は吸いたくないのよ、と語る妻(17節)、それは、実に手厳しい。ヨブは、このような状況になって、手の平を返した、友人や身内の者の状況を語る。

だが大切なのは、それは皆、神がそうした、と考えているところである。だから痛みを一緒に担おうとするあなたがたまで、そんな態度は取らないで欲しい、私をあわれんでほしい(21節)、神と一緒になって私を責めないでくれ(22節)、というわけだ。

3.あなたがたではない、私を贖う方が立ってくださるだろう(22-25)

四面楚歌の思いの中で、ヨブは言う。あなたがたが、私の言うことを理解できないのなら、後の時代の者たちが理解できるようであって欲しい。つまり書物に私の苦悩の全てが書き記され(23節)、いやいや、鉄の筆で一語一語が岩の壁面に刻み込まれ、そこに鉛が流し込まれて、私に与えられた神の仕打ちがどんなものであったかを後の世にわかるようにしたい(24節)。そうすればわかる人もいるだろう。(26-29)

いや、そうまでしなくても、わかってくださるお方、贖ってくださる方がいるのは確かなことだ(25節)。あなたがたがそうではないことは確かだが、ルツ記にも記されているではないか。一族が田畑を手放す危機に陥った時に、それを取り戻してやる存在ボアズが現れたように、神の法には、奴隷や、売り出した土地を買い戻すことや、子どもがなく死んだ人のやもめをめとって、子どもを産み、その人の名を残すことなど、窮地に陥った人の生活と権利を守る義務が定められている。贖い主の存在が規定されている。だから私についても、神がそのような方を、私が頽れている、まさにこのちりの上に立ててくださって、私を弁護してくださるはずなのだ(25節)。

すでにヨブは「仲裁者」(9:33)を求め、天におられる「証人」(16:19)があることを確信しているが、ここにいたって、「贖う方」がおられる信仰に閃いている。つまり、単に自分を弁護してくれる仲介者ではない、自分の正しさを証言してくれる証人でもない、近親者として、自分が失ったものを取り戻してくれる贖い主が、天におられることへの信仰を表明しているのである。

4.あなたがたはその時、神の審判に耐えうるのか

神が私たちの敵となり、怒りを向けられるならば、私たちに逃げ場はない。しかしたとえそのような決定的な断絶にあったとしても、贖い主がいてくださるならば、私たちの人生には望みがある。だから「私の皮が、このようにはぎとられて後」(26節)私は神の前に恐れることなく立つことができる。そして、あなたがたは、事実が明らかになった時、その神の審判に耐えられるのか?(29節)というわけである。

復活の思想が旧約聖書に出てくるのは、ダニエル書が最初であり(ダニエル12:2)、ヨブに復活の思想はない(10:21,16:22)。だから、突き詰めて考えると、この個所は難解である。しかし、よみの塵の上に立つのは贖う方である(25節)。ヨブが自分に重ねて、意図せずにキリストを預言的に語っているところである。つまり、キリストの来臨と復活の予告、その方による贖いが語られている。

ヨブが、神に自分の身の潔白を訴えるのは、この第二ラウンドで終わる。ヨブは、自分で自分の正しさを証明するよりも、仲裁者を想起し、さらに証人から贖い主へと自分の義の行方を委ねようとしている。大切な点である。私たちは、自己弁護に度が過ぎ、自分の正しさを証明しようとするあまり、ますます泥沼に陥っていくことがある。しかし、自分の正しさはいずれ仲裁され、証言され、贖われる信仰に立つことが大切で、そうして初めて、自分に敵対する者、責める者に冷静な対応を取ることができる。魂の自由は自分を弁護してくれる方の存在に気付くことにある。神は裁き主であると同時に、愛の方であり、私たちの味方である。贖い主である神にこそ望みを抱いて歩ませていただこう。

 

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