ヨブ記20章

20章 神を間に語る
<要約>
おはようございます。人間が一対一で語り合うことには限界があると言わなくてはなりません。神を間において、神の導きを求める対話が大事であるという気づきへ導かれたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.悪しき者の人生も束の間である(1-9節)
ツォファルは自分の不快な感情を断言して憚らない。もはや病人ヨブに対する配慮はなく、あなたのことばでむかついた思いをぶちまけずにはいられない(2節)というわけだ。ヨブは完全に悪者である。3節「悟りを与える霊」と訳された「霊」は、神の霊ではなく、人間の精神の働きを意味する。つまり、ツォファルは、心を開かれる神を交えてヨブと語ろうとしているわけではない。単に自らの思いに突き動かされてヨブに反論しようとしている。これが、すべて話が通じない原因と言うべきものなのだろう。
少し話がずれるが、カウンセリングは、カウンセラーとクライエントが一対一で向かい合い、問題を解決する作業であるが、キリスト教カウンセリングは、考え方が違う。カウンセラーとクライエントの間に神を置き、両者が共に神の御心を探る中で、解を見つけていくのである。だからクライエントに神に信頼し、神の言葉に解決を見出す気持ちがなければキリスト教カウンセリングは成り立たない。牧会も同じ性質を持つ。
ともあれ、先にヨブは、「よみ」を問題にした。よみにおいて立たれる贖い主の存在に触れた。だから4節「地の上」は、前章25節の「ちりの上」にかけたことばで、ツォファルは、ヨブのことばを否定し、あくまでも霊的な次元を考慮に入れない地上の事柄のみで語ろうとしているわけだ。となると20章は、よみに下り復活する贖い主の否定とも読める。
まず5節、ツォファルは悪者とその運命について力説する。「悪しき者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみは束の間だ」(5節)、「彼は夢のように飛び去る」(8節)と。はやくこいつなんとかならないものか、と忌々しく思っていたはずの存在が、もう、二度と見ることはないのだ。彼が住んでいたと記憶していた家も、もはや空き家である(9節)。
2.(10-19節)
「彼らの子らは貧しい人たちにあわれみを乞い」、そんな状況になれば、当然、悪しき者によって貧しい境遇に落とされた人たちは、自分たちのものを返せと迫り、返してもらうことになる(10節)。実際悪しき者は、いつ、突然神にタイムリミットを切り出されるかわからない(11節)。彼が死んでこれを手放すのか、あるいは生きている間に返すことになるのかはわからないが。というのも、彼は、本当に富めることの旨味を味わっていたかもしれないが、それは逆に彼を蝕むものとなる(12-14節)。神が働いているのだから、彼は不正に得たものを吐き出すことになるだろう(15節)。労して得た富を彼は消化しきることができない。彼は何もかも地上に置いていかなくてはならないのだ(17節)。
介護をしながら、思うことがある。どんなに豊かに富を得て、そして、今日は久々に御馳走を食べたいと、スーパーで、美味しそうなお惣菜を買い込んでも、体が思うように動かない歳になって、一人では食事準備もゆっくりで、うまくいかず、結局レンジで温めたモノも、すぐに冷めて、結局、美味しそうに見えたものを冷めた状態で食べるしかない、そんな状況が人間には来るのだ、ということ。まさに、「商いで得た富も楽しめない」(18節)と言う状況がある。
3.悪しき人間が神に受ける分は悲惨な最後である(20-29節)
「彼の繁栄は続かない」(21節)。ツォファルのことばは長々と続くが、それは修飾が多いだけで、語ることは単純だ。神の審判が下れば、悪しき者は、結局、自分の貯えた財産を楽しむこともなく、その生涯の幕を閉じてしまうことになる(23節)。彼は神の審判を免れることはない(24節)。終わりには、恐怖があるのみだ(25節)。人は色々と過去のことを思い出すものなのだろう。死を間際に、こんな僕は、地獄に行くしかない、助けてくれ、祈ってくれ、と語った老人がいる。死は、一人で通り抜けなければならない最大の試練であるが、そこで罪の呵責に責められたらひとたまりもない(26節)。神は彼の罪を明らかにし、地も、彼の罪を証言するのである(27節)。そしてそれにふさわしい審判を受けるのであるが(28節)。ヨブよ、あなたはまさにその判決にさらされているのではないか、(29節)というわけだ。ヨブの不幸はヨブが悪しき者であるからに他ならない、そんな言い方である。
外面的な現象に注目すれば、ヨブには隠された罪があるとしか言いようがない、というわけである。しかし、そうではなかった。人が不幸に遭遇することが必ずしも、自業自得の結果であるとは限らない。ツォファルの語ることは一面で真理ではあるが、当てはまらない場合もある。
私にはあなたの問題はわかっている、と思う時にこそ、落とし穴がある。神を介して、語り掛ける、あるいは、神が互いの議論を導いてくださるのだ、という一歩退いた気持ちがない時ほど危ない。
パウロは、教会の奥義は、一致にあると説いた(エペソ3:6)。人が教会で一つ思いになっていくためには、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合う」(エペソ4:2)ことがなくてはならないという。人間関係に誤解はつきものだから、謙遜と柔和さをもって、また寛容を示し、愛をもって互いに忍び合うことがなければ、関係を築き上げることは難しい。
人にすべてを見抜き通すなどということはありえず、どこか理解しきれぬ所がある、どこか見落としていることがある、神ご自身が働いてくださってこそ、神が語り掛けてくださってこそ、この問題は解決される、という謙虚さを持つことが大切なのであろう。常に、神を間に挟んだ対話(キリスト教カウンセリングあるいは僕会)が、人間には必要なのだ、と心得たいものである。主が、語ることを導いてくださるように祈ることとしよう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください