21章 原則通りにはいかない
<要約>
おはようございます。どのような信仰の姿勢で日々を生きているのか。世の中の原理を突き抜けた、本来人間が生きるべき、在り方を求めていきたいと考えるのは私ばかりでしょうか。人間というのは、このようなものではない。崇高に神に造られた者としての在り方があります。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
- まずよく聞いてくれ(1-6節)
ヨブは、まず自分の言うことをよく聞くように頼んでいる(1節)。で何を語っているのか。杓子定規に原則を当てはめ、ヨブの信仰を認めず、悪人呼ばわりする友人への反論である。というのも、原則があっても、世の中には原則とは異なることなどいくらでもあるだろう。ヨブを訪ね、1週間何も口を聞けなかったように、その時のショックを思い起こしてほしい(5節)。言葉では説明のつかないことが起こっているのだ。神がなぜこのようなことをお許しになるのか、私にはわからないし、いや、考えていると恐ろしくなる。
2.悪者の栄光は一時とは言うが、そうだろうか(7-16節)
あなたがたは、悪者の栄光は一時である(20:2-9)、という。これは確かに原則的なことなのだろうが、しばしば現実は、「悪しき者が生きながらえて年をとっても、なお力を増し加える」(7節)ことがある。私は子どもを全て失ったのに、彼らの子孫は安泰だ(8節)。子どもたちは実に幸せそうに、しているし、彼らが何かの恐怖に脅えているなんてことはないではないか(9節)。その家畜も繁栄し(10節)、陽気に歌いながら人生を暮らしているではないか(12節)。そして皆に守られて長寿を全うするのだ(13節)。だから彼らは神に向かって言うではないか。神さんだって?それがどうした。義なる神、愛の神、そんなものがいるのか。知りたくもない(14節)。全能者だって?私たちの主だって?何をしてくれるのかね、その主というものは。彼がいなくたって、私は私の力で十分やっていける。祈りの意味がわからない(15節)。もちろん、私は、それが現実であり、それが真実だと言おうというわけではない。彼らの繁栄は、彼らの力によるものではなく、神の御心の中にあることはわかっている。だが、私にはそれがよく理解できないだけなのだ(16節)。
3.悪人善人の区別など人は生きているのではないか(17-26節)
悪者のともしびが消えて、破局が彼らに臨み、滅ぼしつくされてしまう。そんなことがあるものなのか(17節)。本当は、風の前の藁、つむじ風が吹き散らす籾殻のようなものなのに(18節)、そんな現実はあまり見たためしがない。彼らは滑りやすいところにいると言うが、たとえ滑っても、ちゃんと復活してくるものだ。神がそういう者たちに禍を計画しているとは思われない。その人自身が報いを受けて、思い知ればよいのに(19節)。神の言葉が言うように、神の憤りに彼はさらされなければならないのだ(20節)。実際、人間寿命を迎えて、死を迎えるなら、残されたことなど、関係がないではないか。その人自身が報いを受けるとよいのだ(21節)。
ああ、私は思い切ったことを言っているものだ。神に人生訓を垂れようというわけか。そんな高慢さにあるとしたら神の裁きを受けなければならないだろう(22節)。だが、さらに言えば、人間、良い者がその報いを受けて、悪い者がそれにふさわしい裁きを受けるなどということはないのではないか。実際、そんなこととは関係なく、ある者は、元気盛りの時に突然命を取られ、ある者は、全く安らかに平穏に死を迎える。(23節)。ある者は、幸せたっぷりに生き(24節)、ある者はそうではない(25節)。いずれも共に、腐敗し、土塊となり、死んでいくのだ(26節)
4.根拠のない議論を続けるのか
あなた方の論法からすれば、私は「高貴な悪しき者」だったというわけだ(28節)。だが現実をよく見ることだ(29節)。悪しき者は、要領よく禍いを免れ、生き延びていくものだよ(31節)。彼はちゃんと墓に葬られて、誰もその墓を荒らすことなんでないじゃないか(32節)。葬式の時には、長い行列ができ、後にも先にも人がこれを見守る。これが現実だ。それが私だというのか。こんないい加減なことを言うなんて、あなた方は友なんかでは全くないね。
「神は正義だ。神は悪者を罰せられる」と私たちは信じている。しかし、その信仰が否定されることがある。富む者はますます富、貧しい者はますます貧しくなる、神は社会の不平等を正されない。そのような現実があるし、そのような人こそが安住の日々を終える、そのような現実の中で、私たちは苦しむことがある。
しかしそのように考えてしまうこと自体が落とし穴である。神を信じることの意義を、生活上のご利益に結びつけてしまう、そこがそもそもの間違いである。それは15節にある悪者の考え方と同じなのである「全能者とは何なのか。私たちが仕えなければならないとは。どんな益があるのか。私たちが彼に祈り願ったところで」と。
結局は、よい目みたさに神を信じている現実、ここから私たちが本当に脱却しない限り、私たちの信仰は本物にはならない。もし、繁栄と祝福が信仰の証明であるならば、私たちの神はそんな程度のものだろう。しかし、私たちの神は貧しさを選んで、世に降りてくださったお方であるし、自らの命をささげることをもってご自身の愛を示されたお方である。私たちの発想そのものが正されなくてはいけない。原則通りにならない、腐ってしまいそうなことが五万とある世の中で、それに振り回されない発想と信仰が必要とされる。