ヨブ記24章

24章 悪者が栄えるのはわかるが

<要約>

おはようございます。ヨブの語りに耳を傾けていると、確かにその通りだな、と思わされるところでしょう。悪しき者が、神に守られているかのような現実。しかしたとえそうであっても、それはしばらくのことであり、彼らは同じ死の結末を迎える。ただ、神はどうして、即座にさばいて下さらないのか、なぜ神は何事かを操作するような世の動きを許されるのか。腐ってしまいそうな現実の中で、ただ神の善であることを信頼し、神に生きることの難しさと逆にそこに人間としての素晴らしさがあるようにも思います。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.裁き主である神のその兆候は見えず、まるで無関心である(1-12節)

「なぜ、全能者によって時が隠されていないのに、神を知る者たちがその日を見ないのか」(1節)わかりにくい訳である。「時」と「日」は、複数形であって、「神の審判の時」を意味している。「隠されていない(新改訳)」、「蓄えられていない(新共同訳)」と訳されているが、その意味するところは、神は裁きの時を明らかにしながら、裁きの時が実際にあるようには思われない世界の様相はどういうことなのか、世の中は、不当に扱われた人たち、ひどい目にあわされた人たちに溢れているのに、そのような人々に対する神の情が少しも感じられない状況があるではないか、ということだろう。「神を知る者たち」は、契約関係において神と親しい関係にある者たちの意味である。つまり、第三ラウンドにおいても再び「契約の民の苦しみ」がとりあげられ、2節以降は、神を知る者たちが、裁きを願っても与えられない実例があげられている。

世のブルジョアたちはますます富、しかも、その手段のいかにあさましいことか。無産者階級のプロレタリアートは搾取されるばかりだ。5節「荒野の野ろば」は比ゆ的な表現で、「哀れな人々」を意味している。自分の土地を追われ、慣れない土地でかろうじて食料を得なくてはならない人たちである。彼らは自分たちの畑を奪った悪者の目を盗んで、それを得るのである(6節)。2-8節には、まさに悪者によって生活を搾取されている者たちの悲惨さが語られる。10節は、7節の繰り返しのようでもあるが、ここは9節から続いていて、奴隷と哀れな人々が描かれている。つまり、「みなしごを乳房からもぎ取る」ことも「貧しい者の持ち物を質に取る」ことも、奴隷とされることを語っている。12節は、その結論であって、このような哀れな神の民に、神は無関心である、これが現実だ、というわけだ。

2.悪しき者は、闇に紛れて働く

13節以降は、人殺しや盗人、姦通を犯す者が世にのさばっている事実(13-17節)が取り上げられる。

こうして読んでみると、ヨブが語っていることは、搾取され、渇き、傷つき、嘆き、生活に追われ、うめいている多くの人々の声である。世の中の物事は、結局、一部の強欲な者たちの利得のために動いているのであって、世には何億という虐げられた者、あわれな者がいる、というわけだ。だが、ヨブの観察に、ヨブがいかに正しい人であったかということを考えさせられるところでもある。ヨブはこれだけ世の中のことをよく見ていた。彼は純朴で、知能が低く、神を素朴に愛して正しい人であったわけではない。彼は世の中のことをよく知りながら、その闇の側面についても、よく理解しながら、しかし、神にある正しい生き方を貫いていたということだ。そこにサタンの目が向けられた、ということだろう。

世の中のこうした矛盾と不公正に満ちた世界を見るならば、だんだんと心が腐っていくというか、真面目に生きるのがバカバカしく思えるものだろう。そして、このぐらいは、あいつらに比べたら、無きに等しいことだと考えてしまうものではないか。人間の堕落は、実にハードルの低いことなのである。

3.だが悪しき者は、ある日突然死を迎える

18-20節は、挿入的である。新改訳は、行を開けて、この部分だけを独立的に扱っている。新共同訳は、18節から24節を鍵括弧で括り、ヨブの友人のことばの引用であるかのように扱っている。わかりやすい訳を目指すなら、このように解釈を入れざるを得ない。

つまり、不正で富を手にしたような者は、神の審判を受けるのだ。まるで夏の日照りが、雪解け水を無きものとしてしまうように、悪しき者は死に飲み込まれて消えていく。たとえしばらく悪どいやり方で物事を進めることができようと、思いもかけない死を彼にもたらすのだ(22節)。彼らが高められているのは、しばらくの間のことで、やがて根こそぎにあれる。誰もこの観察にノーとは言えないだろう(25節)。

ともあれ、ヨブは単純に反論するわけではなく、事実を客観的に語る。そして、その現象の中に、神の手が動いていることを認めている。つまりヨブは一般的に語りうる悪しき者の結末を認めながらも、神が、不可解にその結末を「操作」しておられる事実を指摘している。つまりヨブは、厭世的に語っているようでありながら、神を認めていないわけではない。悪者が栄え続けるのも、神の御手によるのである。だから、ヨブは不信仰になっているのではなく、すべてを最善に導かれるであろうはずの神に、「操作」の意味を問うている。神に近く生きるヨブの姿を思わされるところであろう。ただ神は、アブラハムに心の秘密を解き明かし、アブラハムを友と呼んだ。ヨブにはそうしてくださらないのか。それがヨブの問題である。神を信頼するのみならず、神に語られる近さを求めて歩みたいところである。

 

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