26章 神の至高性
<要約>
おはようございます。今日は、神の志向性について、ヨブが実に明快に語っているところです。神は神であって、人とは全く異なる存在であることを、私たちはよく理解すべきなのでしょう。そこに信仰も、神を認める思いも生じるからです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.だれによって語っているのか(1-4節)
「あなたは無力な者をどのように助けたのか」ヨブの皮肉がある。友人たちが、親切に色々と教えてくれるのはよいが、あなたは、だれによって語っているのか、という。「だれに対して」は「だれによって」と訳出するのがよい。つまり、友人たちの教えの源泉は何か。それは、神からのものなのか、というわけだ。確かにツォファルは、「悟りの霊」(20:3)を持ち出した。しかし、ヨブはそれが神からのものであるとは認めることができない。
5節以降は、ビルダデの言葉に対するヨブの反論である。ビルダデは、神の至高性を強調し、人間の不完全さと卑しさを力説する結果となった。しかしヨブは、後で述べるように、神の至高性を、天上のことだけではなく、この地と地下にも及ぶと、より包括的に語り、別の結論に達している。つまり、そんなことはわかっている、問題はもっと深いのだ、そしてあなたがたの言うことについては、こういう考察が足らない、と言わんば
かりである。
ここで、脱線ではあるが、よく人に話を聞いてもらいたいと言う人はいるが、人に自分の問題をわかってもらえると思うのがそもそもの間違いである。誰かに悩みをわかってもらいたい、と口を開いても後悔するばかり、結局は、誰にもわかってもらえない現実というものがあるからだ。しかし人は諦めきれずに、あの人に語りこの人に語り、を繰り返す。人に人の悩みなどわかりはしない、個々の経験は千差万別であり、類似はしていても決して同じではない。だから悩みを話して返って傷つけられることもある。とすれば、悩みを自分の内に秘めて、解決を神の時に委ねて祈る方がより現実的、建設的ある。人に期待し過ぎる愚かさがある。これは逆もまた真であり、人の悩みがわかると思うことがあったらそれも間違いなのである。誰も人の人生の深みに連れそうことはできない。あなたの悩みは完全にはわからないし、出来ることは思い当たらないが、支えになれることがあったらなりたい、と距離を保ちながらも共にあり続けることの方が真実である。
2.あなただって神のことがわかるわけでもない(5-14節)
ヨブは語る。「よみも神の前では裸であり、滅びの淵もおおわれることはない」(6節)。神の御力はこの世ばかりではない、よみの世界にも及ぶ。「死者の霊」は、まさに死人のことを指し、霊の世界の広がりの中で力を発せられる神を思わせられるところである。確かに、天も地(10-11節)も海(12節)もすべて神の御力によって守られている。神は全能なのだ。「ラハブ」(12節)は当時一般に知られ、恐れられた海の怪物。「逃げる蛇」(13節)も当時の神話に関連した表現である。これは、神が他の神的な存在と戦って勝利したことを認めているのではなく、神が当時恐れられた全ての権威に勝っていることを語っている。
しかし「これらはただ神の道の外側に過ぎない」(14節)「外側」と訳された語は、口語訳では「端」新共同訳では、「一端」である。つまり、私たちは、神のみわざのほんの一部を目撃しているに過ぎず、神の全体を見渡すことはできないということだ。結局部分的に見て、わかったつもりになっていることを戒めている「私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです」(1コリント13:9)とパウロも語るが、私たちは神を知り尽くすことはできない、しかしそうであればこそ、人間は卑しめられるよりも、一層神の深きを思い、その至高性を賛美し、遜る思いへと導かれる。力ある創造主の何かを理解しているなど、実に厚かましい考えなのだ。ビルダデと全く違う結論に辿りつくヨブの姿がある。神の至高性を正しく受け止めたい。