36章 いつでも神を賛美せよ
<要約>
おはようございます。神を賛美するというのは、楽器を手に、声を揃えて歌うことを意味するのではなく、それは、日々の心の営みであることを覚えさせられるところです。教会に来て、賛美をしても、日々の生活の中で、しかも試練の中で賛美しうるかどうか、そこが私たちの証の生活のポイントとなることでしょう。そのような日々があってこそ、キリスト者の生活は世の光、地の塩となるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.神の理解力は完全だ(36:1-7)
エリフの弁論が続く。「まだ、神のために言い分がある」という(2節)。先祖がずっと昔から語り伝えて来たものをもって、神の正しさを示そう、という(3節)。私の言い分が正しいことを示すために、まず初めに、神が完全な知識を持っておられるお方であるという言い伝えがある。神は全てを知り、見定めているお方、神に隠されるものはない、そのお方とあなたは向かい合っているのだ(4節)。神は全能の神であると同時に、全知の神である。神の理解力は完全で、神は全てを理解した上で、その力を行使される(5節)。だから、神には、悪しき者をそのままにはされず、苦しめられている者の権利も回復されることが可能なのだ(6節)。神は地の片隅に正しい者がいれば、その者を見落とすことはない。彼にふさわしい報いを与えるだろう(7節)。
2.神は無意味に苦しめられない(36:8-15)
だから、もし正しい者が不正な権力者によって苦しみの縄に縛られることがあるなら、それは無意味なことではない(8節)。それが罪故のものであるなら、神は、その人の何が悪いのか、彼の高ぶりは何かを必ず告げてくださるだろう(9節)。神は、悟りを与えてくださり、その行いを改めるように導いてくださる(10節)。そしてその人が、神の聡と戒めを受け入れるならば、その人は、自分の幸せを回復するのである(11節)。必ずその何が悪いかを語ってくださるだろう(12節)。だからその苦しみを通して語られた神の声を受け入れようとしないならば、彼らは神の懲らしめの内に滅びるのである(13節)。
ヨブは、神が答えてくださらないと悩んでいた。ヨブは三人の友の主張に真っ向から反対したわけではない。神の沈黙に苛立っていた。しかし、エリフは断言する。神は語ってくださらないのではない、必ず語ってくださる。いや、苦しみの意図を告げてくださる、と。悪しき者は、決して、神にその意味を訪ね求めて遜ったりはしない。彼は、神を恨み、神に憤り、神に毒づくだけなのだ(13節)。結果彼らは救われることはない(14節)。しかし、正しい者は、神にその耳を開いていただくことができるだろう。神の与える不幸は、彼をさらなる幸いに導くためなのだから(15節)。
3.豊かさに欺かれないことだ(36:16-23節)
だから神を恐れて、高慢になり、豊かさに欺かれないようにすることだ。あなたは今まで何の不自由もなく、思うままに行動してきた。神があなたを守る垣根を張り巡らされたからだ。あなたは豊かになり、栄え、誰からもうらやむような人生を生きた。だがそのことに足をすくわれてはならない(18節)。いやもしかしたらあなたは調子に乗って記憶に留まらない罪を犯したのかもしれない。だから今あなたがどんなに叫んでも、どんなに訴えても、神が取り合わない事態が生じているのではないか(19節)。人が不正に踏みにじられ、悲しみの内に打ち伏してしまうような夜を求めてはならない。上に立つ者、権力を持つ者は、貧しい者、みじめな境遇にある者に対して、抑圧を強いることに注意せねばならない(21節)。だがあなたはひょっとして、悲しむ者と共に悲しむのではなく、無情な顔を向ける過ちを犯してしまったのではないか。しかし、全てを理解しておられる神は、あなたを教えようとしておられる。あなたを罰して懲らしめて、滅ぼそうというのではない。慈愛に富んだ父なのだ(22節)。その神にどうしてあなたは「不正をした」と言うことができるだろうか(23節)。
4.(36:24-33節)
むしろ、あなたは、自分の身に起こることについて神に賛美をささげるべきである。不可解であればあるほどに、神に栄光を帰すことであって、その逆ではない(24節)。へブルの著者も連ねたように、身に起こる不幸を不幸とするのではなく、信仰によって将来を臨み見、神を賛美すべきである。正しき者の、その証を、全ての人が見るだろう(25節)。神は、私たちの理解力を超えたお方であり、人間のように、限りある命ではない(26節)。雨を例に考えてみれば、神は水を蒸発させ、それを凝固させて雨都市、雲の中からしたたり降らせてくださる(27節)。一体だれがこのような科学的な仕組みを理解し、これを造りえたであろうか(28節)。そして神は、太陽を登らせ、雨で地を潤し、海を水で満たされる(30節)。その循環によって人は農耕の恵みに与ることができるのだ(31節)。すべてが実にうまく、造られている。しかしそこに神は雷も、嵐も加え、神が狙ったところにそれは下される。だが、それも神の恵みの循環の仕組みの一つなのだから感謝すべきなのだ(32節)。その雷により私たちは神を知り、神を恐れ恐れ、神が全てをお造りになったことを覚えるのである(33節)。神の知り尽くすことのできない知恵がある。
神は私たちを友と呼んでくださる。また私たちを子としてくださる。そして神は私たちを長く祝福してくださることもあるだろう。しかし、その恵み豊かさの中に足を救われるようなことがあってはならない。神の前に厚かましく、尊大な者になってはならない。神と共に歩むことは、もっと厳粛なことである。それは、肩肘張る堅苦しいものではないが、崇敬する思いを秘めたものである。もし、私たちが神の前に遜って仰ぐ心を持って、正しく歩むならば、神は、必ず、私たちの疑問に答えてくださることを確信してよい。神の沈黙には動きがある。静かに待つべきである。神の前に愚かになってはいけない。神を信頼し続けることである。そして神を賛美することなのである。賛美は、楽器をもって歌うことが賛美なのではない。日々、神の前に賛美をもって謙虚な思いで歩ませていただくこととしよう。