ヨブ記37章

37章 神を神として崇める

<要約>

おはようございます。昨日同様に、神の素晴らしさを語る、エリフのモノローグが続きます。私たちは自然界を通して神が語っておられるのに、何も気づかずに日々の生活を送っているところがあります。もっと目を開いて、神の御手の中にあって生きていることを確信すべきところでしょう。そうすれば、私たちはもっと謙虚に、またもっと大胆に生きることができるはずです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神の偉大さに注目せよ

エリフは、神の壮大なスケールを、自然現象の数々を用いて説明しようとする。初めは、36章29節からの、雷鳴の描写の続きである。神はなぜもあのような稲妻を光らせるのか。なぜあれほどの怒りにも似た耳をつんざくような轟音を響かせるのか。私などは、その脅威におののいて、心底震えてしまう(1節)。イエスは、「黙れ、静まれ」と嵐を静められたが、雷鳴を引き起こされるのも主である(3節)。神は御声を発し、地の隅々にまで閃光を走らせ、雷鳴を轟かせ、手加減を加えずに破壊的な力を注がれる(4節)。実に神は、不可思議である(5節)。雪だって夕立だって、皆そうだ。皆、神がなさるのに、これが神の業であると人は思いもしない(6節)。深い雪の中では、人は仕事の手を休め、神の業のもとに鎮まるほかはない。どんなに高度な科学技術を発展させても、自然界の脅威の前に立ち尽くしながら、人間はただ自分がこの地上に生まれ出た無力な被造物であることを思い知らされるだけだ(7節)。獣すら自分の身を守る場所を探して、穴倉に駆け込むだろう(8節)。あなたも、神の恐るべき威力については既に述べているが、冬になれば寒気が忍び込んでくる(9節)。あなたが言う天の前(9:9)に、夏の間は潜んでいたつむじ風が押し寄せてくる。そして神が命じられるその息吹により、たちまち地は凍り付いてしまう(10節)。ともあれ、雷雨のごとく、すべては神の指図によって巡りまわるのである(12節)。その意図は容易にはわからない。それは、人間を懲らしめるため、また人間に恵みを施すためである、という(13節)。

2.神を恐れよ(37:14-24)

自然の営みを通して、神はご自身の怒りと愛を示される。私たちにはその神の奇しいみわざを、熟考する時が必要である(14節)。

歳を重ねて思うことは、自然の恵みを味わいながら、朝毎に聖書を開き、神のことばに耳を傾ける、これに優る幸いはない、ということだ。何が幸せか、金がある、家がある、地位がある、友が多くいる、ということも大切かもしれないが、神と共に、語り合うよき時に優る幸いはない。それは人生の究極の至福である。神が供えられた草花や、生き物を楽しむこともなく、ただ、馬車馬のように働く人生は、多くを稼いだとしても、最期には全てを置いていかなくてはならない。自分の苦労を何も知らない人に置いていくのである。だが、自分が何者であるかを弁えながら神に近付かせていただき、神とよき時を過ごす豊かさの時は、地上の体を脱ぎ捨てることがあっても、これを失うことはない。むしろそれを確かなものとするのである。だから知恵あることは、永遠の住まいに私たちを迎えられる神との関係を、地上の命のあるうちに、大切に、しっかりと築くことである。

ともあれ、エリフは、私たちの身の回りが神の御業で満ちていることに注意を向けさせる。あなたは、どのようにして神が、雲に稲妻を閃かせるのか知っているのか(15節)。あなたは、空を漂う雲が、どのように雨水をため込んでいるのか、知っているのか(16節)。それは実に神の不思議ではないか。17節、南風とあるが、これはシロッコ風のことだろう。それは、アラビヤ砂漠を渡って、東、南南東、時には南南西から吹いてくる乾燥した熱風である。激しく吹くと、砂塵で空一面が覆われる。数時間のうちに気温が15~20度も上がることがあるので、人々は、これが吹くと家を締め切って熱気と砂塵を防ぐのである。このシロッコ風のために穂が焼け(創世記41:6、23)、ぶどうの木(エゼキエル17:9-10)や草花も(ヤコブ1:10-11)も枯れてしまう。神はこの風をもって葦の海の水を分け(出エジプト14:21)、ヨナを苦しめ教訓を与えた(ヨナ4:8-11)。エリフは言う。ヨブよ、あなたはその身を焦がす脅威を知っているはずだ。それは神の業だ。だから考えてみたい。あなたは神と一緒に、大空を造ったのか、神と共に、これらのことをなしうるのか(18節)。神と人の差は歴然としている。その神に私たちはどのように近づこうか、どのように口を開こうか(19節)。私に語らせろなどと、間違っても言ってはいけない。それは自分の身を亡ぼすことになる(20節)。

今、雲に覆われて、暗いこの地にあっては光を見ることができないだろう。しかし光は、雨雲の中でも輝いている。だから風が雲を吹き払うならば、(21節)、その光に、私たちは照らされることになる(22節)。私たちもまた、今は、この目で、可視的に神を見ることができないでいる、だからといって神がいないわけではない。神は、力に優れ、さばきと正義を実行なさるお方である。単純に考えも足りずに人を苦しめることはない。神は、正しく物事を行う者を決して見過ごされない。(23節)だから私たちは神を恐れなくてはならない。知恵あり、神を愛する者を、神がお忘れになることはない。、

このように正しく、神を認めることは、私たちの人生の安全弁であり、私たちに自分を等身大に見ることを可能にさせてくれる。高く見過ぎることもなく、低く見過ぎることもない。見極めることのできない神に心を留める時に、私たちは正しく自分のありようを知るのであり、自分の進むべき道、慎むべき事柄を弁え知るのである。ただ自分を見つめるだけでは、自分を知ることはできない。せいぜい他人と比べて自分はまし、あるいはだめ、と思うのが関の山であろう。そうではなく、人間が本来、神の形に造られた者であり、神にす全てを与えられているという認識を得るには、神が造られた自然に目を留め、神ご自身を仰がなくてはならない。エリフは、ヨブに言う。真の知者であると誇っても、神と等しい業を行うことも(18節)、神と対等に語ることもできない(19、20節)。神は至高な方であり、恐るべき尊厳を持っておられる。その神が私たちを不本意に虐げることはない(23節)。

神を至高の神として認められるようになることが、霊的な成熟である。自身を造られた者として認め、神あっての自分であることを認めて、今日も、遜りの心をもって神に近付き、神を崇める歩みをさせていただこう。

 

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