41章 深い霊性
<要約>
おはようございます。全ては、人間中心ではなく、神中心にできていることを、改めて理解する必要のあるところでしょう。私たちにとっては完全に背景となる、わき役となる者たちも神にとっては完全な、誇りうる存在です。神がなさろうとしていることを静かに受け止め、いつでも主のなさることに期待し、喜びをもって何事にも取り組みたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.レビヤタンを飼いならすことができるのか(12:1-11)
ヘブル語聖書では、8節までが前の40章に含められて区分されている。実際40章の続きと見てよい。ビヒモスとレビヤタン、音訳をすればそうなるのだが、ビヒモスは恐らく河馬のこと、レビヤタンは鰐であろうとされている。いずれも、私たちが家畜にすることのできないもの、家畜にするなど考えられないものである(3-5節)。
ただ、新改訳がこれを鰐ではなくレビヤタンと訳したのは、おそらくこれが、パレスチナやナイル川に生息した地上の鰐そのものというよりも、ウガリット神話に出てくる巨龍を想定したためなのだろう。となれば、神は、ヨブに対して当時の空想的なイメージを用いて、神に敵対する無謀さを語ったことになる。現実の動物か、それとも空想上の動物か、先の40章を河馬と訳すならば、こちらも鰐とした方がよい気もする。また、神がヨブとの議論に空想の生き物を持ち出すだろうか、という気もするのだが、いずれにせよ、言いたいことは、それらをお造りになった神に対抗することの愚かさである。
だから神は言う。「そうであれば、だれがいったい、私の前に立つことができるだろうか」つまり、レビヤタンすら制服しえずに、どうして神の前に立つことができるか、ということだ。そして言う。「だれが、まずわたしに与えたというのか。わたしがそれに報いなければならないほどに」(11節)。唐突な印象で、よく理解しにくいが、この節はパウロによっても引用されている(ローマ11:35)。そこで、パウロの解釈を当てはめるなら、それは、人間が何一つ神に与えておらず、逆に神が人間に全てを与え、全ての起源とすらなっていることを覚えて、ヨブは、その足元に遜るべきだ、ということになるのだろう。神と対等に語ろうとするヨブに対する否である。
こうして考えると、神と私たちの間に立つ、キリストの存在は実に大きなものと思われる。やはり神は神であり、罪人の人間がそう易々と近づけるものではない。キリストの十字架があってこそ、神を仰ぐことができる、というべきものだ。
2.レビヤタンに優るものはない(41:12-34)
12節以降は、レビヤタンに対する神の絶賛である。「そのからだの各部についてわたしは黙ってはいられない。その力強さと、その体格の見事さについて」(12節)。神は、自らの創造物に対する賛辞を惜しまない。以前、フロリダに行った際に、あちらこちらで鰐の姿を見かけたが、確かに、鼻と眼を突き出して、水中からこちらを伺う様子は、不気味であったことを思い出す。しかし神の目からすれば、それは、実に見とれるような神の傑作なのだ(18節)。実際鰐が、動き出せば、どんな力強い男でも、慌てて、後ずさりするだろう(25節)。それに対して、剣や、投げやりをもって威嚇しても、彼らは動じない(26-28節)。背中は、堅い甲羅のように防御されていても、下腹が弱点かと思いきや、そうではない。彼らが通った泥の跡は、下腹もまた板のように防御されていることを思わせるものがある(30節)。また彼らは泳ぎの名手で、沼地の中を荒々しく進むことができる(31節)。ということなのだろう。
ともあれ、言いたいことは、鰐の威容と力を見よ、全ての者が彼らを恐れて逃げるが、彼らは何ものをも恐れない。彼の背丈より高い生き物はいくらでもいるが、彼は、それらを平然と見下ろす、誇り高い獣の全ての王である、というわけだ。
41章は、40章に続いて、人が自分たちの生活の利益には全くカウントしない存在について語る。鰐の表皮が、高級バックやベルトにされ、重宝にされるのは、現代でのことなのかもしれないが、少なくともこの時代、河馬も鰐も、人間が関心を向けるものではなかった。しかし神はそれらを造り、それらを完全な生き物として造ったことを語る。神が完全なものとして造ったのは人間だけではない。神は被造世界を支配する者として人間を存在させたが、やはり被造世界の中心は神である。世界は人間を中心に動いているのではない、神のみこころを中心に動いているのである。そこを理解し、今の私がどう生きるか、日々の様々な変化と動きにどう応じていくかを考える必要があるのだろう。私たちの身の回りに起こってきたあらゆる変化は、神がお許しになっていることである。それらの中には、驚き怪しむこと、不本意に思うこともあるかもしれない。けれども、あなたを中心にそれらが、あなたが思うとおりの不本意な形で起こっているわけでもないこともある。わからぬものをわからぬままに受け止め、常に主の最善があることを覚えて歩ませていただきたいものである。