ヨブ記42章

42章 神の決裁

<要約>

おはようございます。ヨブ記を読み終わりました。皆さんの心には何が語り掛けられたでしょうか。私は、改めて、人間の罪と、神に対する正しい態度を持つべきことを教えられました。そしてキリストがあるがゆえに、神との親しい関係も保たれていることの意味を深く教えられました。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

  • ヨブ記の流れ

ヨブ記を読み終わった。1-31章までは、ヨブと友人の議論が続くが、その要点は、因果応報というべき、隠された罪による不幸ではないか、ということをヨブに納得させようとするものだった。しかしヨブに心当たりはない。ヨブは神と自分との間の仲裁者を求め、最終的には自分の潔白に拘り、神に挑戦するような終わり方をしている。32-37章までがエリフの弁論であるが、エリフは、先の三人の友人と違い、ヨブの心に寄り添い、仲裁者の必要性にも触れながら、ヨブが、神と対等に語ることへの警告を発している。神は創造主であり主権者なのであり、人は神に並ぶものではない、と。38章から41章は、ヨブに対する神の応答である。神は仲裁者には一言も触れていない。むしろ、神は、人間にとって背景となる様々な光景に目を向けさせ、この世界が人間中心に出来ていないこと、神の御心に沿ってできていることを語っている。ある意味で、エリフが語る神の超絶性をさらに念を押す形で、ヨブの苦難に対する答えにはなっていない。しかし幼児に親が食むように熱心に語る神の愛と配慮に満ちた関りに、ヨブの心は癒され、整えられていくのがわかるところである。

ヨブ記において学ぶべきことは、この神と人との隔絶した違いなのだろう。私たちは神に対して正しい態度を持たなくてはならない。実はその態度のあり様がわかっていないままに、神に近付き、神の名を呼ぶことが罪そのものなのである。そのように不注意で、不埒な私たちが、神に受け入れられるのは、イエスの十字架があればこそである。その十字架に絶対的に寄り頼み、十字架のキリストによって恐れつつ、神に近付き、神に語る、その態度がきちんとできてこそ、詩篇を読む準備ができると言うべきだろう。詩篇というのは、私たちの気持ちを率直に、感情の赴くままに神に語ることを許す祈りであり、賛美である。しかしその貴重に、神を深く恐れる心がなければ、ならないのであって、ヨブ記は、その基本的な姿勢を私たちのうちに形作ることをよしとする。実に大切な書と言わなければならない。

2.ヨブの悔い改め(42:1-6)

さて、今日の最後の箇所を読むこととしよう。ヨブは、試練によって神についての新しい洞察を得た。というよりも、神の実在に触れた、というべきだろう。しかしこの瞬間が、どんな信仰者にも必要なのである。神はいると思えばいる、と漠然と信じているのでもなく、確信をもって、神の存在を受け止めていく瞬間と日々が。

ヨブは言う。「あなたには、どんなことでも可能だ。この先どうなるのか、と思うようなことがあっても、そこから物事を正しく建て直すことなど、全く容易いことである、あなたには、私たちの知らない目的がある」と(2節)。そして言う。「あなたが言うとおり(38:1)、よくわかりもせずに、あなたのなさろうとしていることを、やみくもに批判したり論じたりするなど、とんでもないことです。本当に何とも愚かな口を聞いたものです」(3節)。また、「あなたはご自分の問いに応えよ」と言われました(40:7)。しかし、私にはあなたのお言葉を聞きながら、ただ恥じ入るばかりです。あなたの神の御業と本質をまるで人間のそれと同じように考えている自分の高ぶりを思わされるばかりです。私があなたのことを聞いて、知ったつもりで礼拝していましたが、今は本当にあなたが言葉に尽くせぬ偉大なお方であること、私が地の塵に過ぎない者であることを知り、悔い、あなたの御前に遜ります(5,6節)。

ここでヨブは、友人たちについて、彼らが神をわかっていないと激しく攻撃したが、自らも神をわかっていると思うほどにはわかっていなかった、と悟らされている。主は全能の神であり、主権者である。その神に対する恐れに欠けていたことを、認めさせられていくのである。わかったつもりであるがゆえに、深まらないことがある。

  • 神の仲裁(42:7-9)

7節、続けて神は、ヨブの友人たちに語られる。しかしその要点は、友人たちが言うように、ヨブの不幸は、ヨブの隠れた不敬虔さによるものではなかった、とヨブを弁護するものではなくて、あなたがたは「ヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかった」(7節)と言う点にある。興味深い点である。それは二度繰り返されている(8節)。彼らも、神について何もわかっていなかったことは、同罪なのである。神は友人たちに、まずヨブと同じように、神の臨在を現実の事として受け入れることを求め、その証として、全焼のささげものを献げるように命じられる(8節)。ヨブが正しいか、友人たちの主張が正解かではない。いずれも、神が生きておられるお方であることを、口で言うほどにはわかっていなかったのである。その上で、彼らがわかりもせずに、ああだこうだと、ヨブを非難したことについて、ヨブと和解することを求めた。神にとって重要なのことは、苦難は不敬虔と結びつくか否かではない、神の臨在を人が確かに認め、そのように生きることができるか否かにある。こうして彼らもまた自分たちの非を認め、神に語られたとおりに献げ物をささげ、ヨブとの和解にたどり着いている。

  • 神の計画の実行(42:10-17)

ヨブは彼らのために祈り、議論は収束した。これによって主は、ヨブを元どおりにされた。彼の病気が癒されたことは書いていないが、おそらく彼は癒されたのだろう。だから人々は彼の下に再び集まってきて、一緒に食事をしている。贈り物は関係の回復を意味している(11節)。

そして彼の財産はもとに二倍になったという。そしてこの財産を譲るべき子たちも与えられた、という。また彼は先祖たちと同じくらいの長寿を全うした。今日、このように神が直接的に、物的に介入して物を正してくださることは少ないように感じることがあるかもしれない。しかし、目に見えないところで、状況を整えて、神が、確かに正しいことを正しいとしてくださることはある。神は確かにおられるとわかる方法で、物事を回復させてくださることがある。神は、私たちを恥辱の中に捨て置かれたままでいることはない。必ず私たちの側に立ち、私たちのための最善をなしてくださるのである。

苦難が苦難で終わることはない。神に見捨てられ、十字架の恥辱の死を味わった主イエスも復活の恵みを味わった。苦難にあって何の望みもない肉の人のように腐り果ててはならない。ヨブが二倍のものを祝されたというのは、神を信じる私たちの人生には、望みがあることを象徴的に語っている。私たちの苦難は決して空しくは終わらないことに、信仰を持って歩みたい。そして、いついかなる時でも神を喜ぶ信仰の高嶺へと導かれたいものである。

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