7章 神に語り掛けるヨブ
<要約>
おはようございます。神に切々と訴えるヨブのことばに、私たちも自分の思いを重ねて、自分自身を神に訴えることを学びたいものです。神の現実性を理解するならば、また神の善であることを信じるならば、なおさらです。意味のない人生はありえません。主に意味を解き明かしてもらう、そんな主への信頼を持ちたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.望みのない短い命
6章に続いて、エリファズに対するヨブの応答になっているが、実際には、エリファズにではなく、神に対する訴えとなっている。そこにはヨブの混迷した労働観、神観、人生観、そして具体的な病の苦しみが語られている。
ただ新改訳2017においても、ヨブの心の葛藤を掴むのはいささか難しい。大切なのは、1-2節と3-6節の対比を理解することである。ヨブは言う、「地上の人間には苦役があるではないか」(1節)。本来神を信じる者にとって、それは聖なる神に対する奉仕であり、喜びである。しかし、それは賃金を得るための苦役に過ぎない。斜に構えたヨブの労働観というべきだろう。それはさておき、ヨブが言いたいのは、自分に割り当てられた月日は、そのような苦役よりも悪い、ということだ。つまり彼に与えられたのは「徒労の月日であり、労苦の夜である」と(3節)。労働であれば支払いがある(2節)、しかしヨブには何もない。彼はただ夜明けまであっちに寝返り、こっちに寝返りを打ち続けるだけの長い夜(4節)があるだけだ。そして夜明けになればそこにはみじめに崩れ果てた体を見るだけ。つぶれた腫物にはウジ虫がわき、膿と塵が一緒に堅い瘡蓋になる、そして崩れる(5節)。賃金が支払われるのでもない、ただ一進一退の病に耐えながら苦痛の長い夜を重ねるだけで、その人生は短く死に向かうだけである。それは、機織りの杼がくぐる素早い瞬間と似ているが、美しい布が織りなされることは決してない。なんとも望みのない月日ではないか(6節)。
そういえば、私自身30代に2年間、突然重い皮膚炎となり、思うようにならない時を過ごしたことがある。皮膚が赤らみ、薄くなり、夏場は目の周りの皮膚に汗がしみる。髪の毛も、剥がれ落ちた皮膚で粉を吹き、おまけに風邪を拗らせ、長引き、まるで屍のように感じられる重たい体を引きずって、全ての時の動きから取り残されて行く自分を感じる思いにさせられたことがあった。確かに、すべての思いが否定的になってしまっていた。望みもないままに、あっという間に一日が過ぎ去ってしまう(6節)。人生に実りのないままに、ただ歳を重ねていくだけのように思えた時があった。
神は、なぜそのようなはかない人生を創造されたのか。労働の成果を人に搾り取られる人生も空しいが、何も生み出さないただ病苦の命に耐えるだけの人生はさらに空しい。だから神よ、あなたは人を顧みると言われるが、私はもう間もなくいなくなる(8節)。一旦師の門をくぐるなら、どうして元の家に戻ってくることができるか(10節)。雲が消え去り、二度と同じ雲が現れないように、自分の家族も、彼を再び見ることはないだろう、と言う。
2.関心を向けないでくれ
そこでヨブは、エリファズのことばを受けて、神に尋ね、神に自分のことを訴えている(5:8)。そうであれば神よ、私はあなたにはっきり物を言い、今の苦悩を切々と語ることも許されるでしょう、と(11節)。あなたは私に実にひどいことをしたのです。私は海のような存在でしょうか、あるいは、竜のような怪物のような存在でしょうか。こんなちっぽけな存在がすることに一々目を留められるのは、どういう理由によるのでしょうか(12節)。私は一瞬の憩いも得られないのです。たとえ一瞬眠りについたとしても、悪夢で飛び起き、安らぐことはないのです(14節)。もう逝かせてください(16節)と。
そもそも、人間はどのような存在なのだろうか。神はこれに心を留められるが、朝毎に、人間の用件がうまく進んでいるかどうか、その都度、チェックされるなんて(18節)。あなたの粗探しの目から逃れる一瞬の時すら与えられないなんて(19節)。実際私が罪の性質を背負っているとしても、あなたの戒めを犯しはしないか、と睨んでいるあなたの前で一体何ができるのでしょうか。そもそもどうして私を標的にされるのですか。どうしてそんなに重い荷を負わせようとされるのでしょうか(20節)。私の小さな罪にいちいち気分を害して、責め立てるあなたが、そのバカバカしさに気づいて私に償おうと私を探し出そうとする時には、もう私はいないのです。何もかも終わっているのです(21節)。
読めば読むほどに、自分の言葉のように思えて来るのは、私ばかりではないだろう。つまり、これらのことばは私たちが人生のどこかで、見えない神に向かって発していることばなのである。聖書は、私たちがそのように神に訴えることを許していることを覚えたい。いささかヨブの神観は混迷しているが、神はそのようなお方ではないことは、後で明らかになることである。そこで、人にではなく、神に向かって心の思いの全てを語り、神にこそ解を得る者でありたい。